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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第51話 石より硬い携行食

 あの夜、暖炉の前で「私の家はここにある」と告げてから、屋敷の空気は、ほんの少しだけれど、確かに変わった。

 翌朝の食卓。アレスティード公爵と向かい合って座るこの時間も、以前のような張り詰めた沈黙ではなく、どこか穏やかな空気が流れていた。彼がカップを置く音さえ、昨夜までとは違う響きに聞こえる。

 「レティシア」

 食事が終わる頃、彼が不意に口を開いた。

 「一つ、お前に相談がある」

 「相談、ですか?」

 彼が使うとは思わなかった言葉に、私は少し驚いて顔を上げた。彼は命令する人間であり、相談する人間ではない。

 彼は手元にあった一枚の報告書を、テーブルの上で私の方へ滑らせた。それは、北境を巡回する部隊の健康状態に関する、軍医ダニエル先生からの報告書だった。内容は、私が想像していた以上に深刻だった。凍傷、栄養失調、そして士気の著しい低下……。

 「冬の厳しさは、敵兵よりも先に、我々の兵を蝕む。長年、解決できずにいる問題だ」

 彼の声には、領主としての苦渋が滲んでいた。そして、彼はまっすぐに私を見て言った。

 「お前の『温かさ』が、彼らにも必要かもしれん。この『家』を守る兵士たちにも、だ」

 その言葉に、私は胸を突かれた。

 彼は、私の力を、ただ便利な能力としてではなく、この領地を守るために必要なものとして認めてくれている。そして、それを「相談」という形で、私に委ねようとしてくれている。

 昨夜、私が宣言した「私の家」。その家を守ってくれている人々が、今、寒さと飢えに苦しんでいる。ならば、私がすべきことは一つしかない。

 私は報告書から顔を上げ、彼の氷の瞳を見つめ返した。

 「閣下。そのご相談、謹んでお受けいたします。私のこの手で、必ずや彼らに温かい食事を届けます」

 こうして、私は軍医ダニエル先生と合流し、北の国境線にほど近い、風の吹き抜ける詰所へと向かったのだ。



 北の国境線にほど近い、風の吹き抜ける詰所。その石壁は、長い冬が染み込ませた冷気で、じっとりと湿っていた。

 「見ての通りだよ、公爵夫人。これが現実だ」

 ダニエル先生が顎で示した先では、ちょうど巡回任務から戻ったばかりの兵士たちが、遅い昼食をとっているところだった。彼らは凍てつく風を避けるように身を寄せ合い、ほとんど無言で、何かを口に運んでいる。

 その「何か」を間近で見て、私は息を呑んだ。

 それは、食事と呼ぶにはあまりに過酷な代物だった。手のひらサイズの干し肉は、乾燥しきって黒ずみ、まるで黒曜石のようだ。それをかじり、歯が立たないと分かると、今度は革袋から取り出した堅パンを、雪解け水を汲んだだけの桶に浸して柔らかくしようと試みている。

 パンはなかなか水を吸わず、兵士は苛立ったようにそれを桶に押し込んだ。冷たい水が、かじかんだ指先をさらに赤く染めていく。その光景は、栄養補給というより、むしろ拷問に近かった。

 「彼らの多くが、冬の終わりには胃腸を壊すか、栄養失調で体調を崩す。戦う前に、寒さと飢えで兵士が倒れていくんだ。これでは領地を守ることなどできん」

 ダニエル先生の言葉には、医師としての深い無力感が滲んでいた。

 兵士たちの瞳には、光がなかった。ただ任務をこなし、与えられた餌を口に入れ、短い休息の後にまた極寒の荒野へ出ていく。その繰り返しに、心も体もすり減っているのが、痛いほど伝わってくる。

 かつて、実家で私は「いい子」として、ただ耐えることを強いられてきた。けれど、彼らは違う。この国の民を守るために、自らの命を危険に晒している誇り高き兵士たちだ。彼らがこんな仕打ちを受ける謂れはない。

 私の腹の底で、静かだが、確かな怒りの炎が燃え上がった。それは、かつて自分を虐げた家族に対するものとは違う。守るべき人々が、無理解と前例主義によって不当に苦しめられていることへの、義憤だった。

 私は兵士たちから目を離し、ダニエル先生に向き直った。

 「先生。この状況は、私が変えます」



 屋敷の厨房に戻った私は、すぐさま行動を開始した。

 私の頭の中には、前世で得たアウトドアや非常食に関する知識があった。お湯を注ぐだけで温かい食事ができる、フリーズドライ食品の原理。それを、この世界の食材と技術で再現するのだ。

 「フィー、ゲルトさん。少し、いえ、かなり無茶なお願いがあります」

 侍女長のフィーと、今や私の右腕となった古参料理人のゲルトさんを呼び、私は計画の全容を打ち明けた。

 「携行食、ですか? それも、お湯を注ぐだけで食べられる?」

 ゲルトさんは、塩漬け肉の専門家らしい、疑い深い目で私を見た。

 「ええ。まず、野菜をできるだけ薄く切り、完全に乾燥させます。人参、玉ねぎ、カブ、そして豆類も。次に、塩漬けの干し肉を燻製にしてから、これも細かく粉砕する。旨味を凝縮させるんです」

 私は厨房の棚から様々なスパイスを取り出し、調合を始めた。塩、胡椒、乾燥させたハーブ、そして少量の一味唐辛子。体が温まる効果が期待できる。

 「それらを全て混ぜ合わせ、兵士一食分の量を、小さな布袋に入れる。飲むときは、お湯を注いでかき混ぜるだけ。そうすれば、熱々の具沢山シチューが出来上がるはずです」

 私の説明に、フィーは目を輝かせた。

 「まあ、奥様! それはまるで魔法のようですね!」

 「魔法じゃありません。ただの科学ですわ」

 それから数日間、厨房は私の実験室と化した。野菜の乾燥時間、肉の燻製の加減、スパイスの配合。失敗と試作を繰り返し、ゲルトさんも最初は半信半疑だったが、次第に彼の職人魂に火がついたようだった。

 「奥様、この干しキノコを砕いて入れれば、もっと出汁の深みが増しますぞ」

 「素晴らしいアイデアです、ゲルトさん!」

 そして一週間後。手のひらに収まるほどの、素朴な麻の布袋が、百個ほど完成した。見た目は地味だが、この小さな袋には、私たちの知恵と、兵士たちへの願いが詰まっている。



 試作品を手に、私は兵舎の補給部を訪れた。責任者であるマルクス大尉は、恰幅のいい中年男性で、その顔には長年の事務仕事で染み付いたような退屈と事なかれ主義が浮かんでいた。

 「ほう、公爵夫人が自ら兵士の食事を? ご冗談でしょう」

 私の提案を聞くなり、マルクス大尉は鼻で笑った。机に置かれた私の試作品を一瞥もせず、彼は帳簿に視線を落としたままだ。

 「兵士の食事に必要なのは、腹が膨れることと、安価であること。それだけです。あなたの作るような手間と金のかかる代物は、我々の兵站の現実を何も分かっていない、貴族の道楽に過ぎませんな」

 その言葉は、私だけでなく、共に試行錯誤を重ねてくれたフィーやゲルトさんをも侮辱するものだった。私はぐっと拳を握りしめたが、ここで感情的になっては負けだ。

 「マルクス大尉。コストについては、計算済みです。乾燥させることで野菜の長期保存が可能になり、結果的に廃棄ロスが大幅に削減できます。初期投資はかかりますが、一年を通せば、現在の携行食より安価に抑えられる試算です」

 私が冷静に反論すると、大尉は初めて顔を上げ、不快そうに私を睨んだ。

 「口ではなんとでも言える。そもそも、そんな粉をお湯で溶いたようなものが、食事の代わりになるとお思いか。兵士は軟弱な病人ではないのですぞ」

 「でしたら、大尉」

 私は静かに、しかし強い意志を込めて言った。

 「論より証拠、ですわね。あなたのその目で、直接お確かめいただきたく存じます」

 ちょうどその時、執務室の扉が開き、従卒が緊張した面持ちで告げた。

 「申し上げます! ただ今、アレスティード公爵閣下が、北境部隊の状況視察のため、ご到着されました!」

 マルクス大尉の顔が、さっと青ざめる。最高の舞台は、整った。



 兵舎の練兵場は、凍てつく風が吹き荒れていた。巡回任務を終えたばかりの兵士たちが、疲労と寒さで青白い顔をして整列している。その列の正面には、氷の彫像のように、アレスティード公爵が立っていた。マルクス大尉は、彼の隣で脂汗を流しながら直立している。

 私はフィーと共に、巨大な鍋で沸かしたお湯と、試作品の入った籠を兵士たちの前に運んだ。

 「皆さんのために、温かいものを用意しました。どうぞ、受け取ってください」

 兵士たちは訝しげな顔で、小さな布袋と木のカップを受け取る。その表情には、「どうせまた、貴族の気まぐれだろう」という諦めが浮かんでいた。

 私はお湯の入ったポットを手に、一人目の兵士のカップに、ゆっくりとお湯を注いだ。

 その瞬間、魔法は起きた。

 ただのお湯がカップに注がれた途端、乾燥していた野菜と肉の粉末がみるみるうちに戻り、豊かな香りと共に、湯気が立ち上ったのだ。燻製肉とハーブの香ばしい匂いが、冷たい空気に一気に広がる。

 「なっ……!?」

 兵士が驚きの声を上げた。彼のカップの中には、茶色いお湯ではなく、人参や豆の粒が浮かぶ、とろりとしたシチューが出来上がっていた。

 兵士は恐る恐る、カップに口をつけた。

 一口、啜る。

 次の瞬間、彼の目が大きく見開かれた。

 「……うまい」

 絞り出すような、心の底からの声だった。

 「温かい……腹の底から、温まる……!」

 彼は夢中になってシチューを啜り始めた。その姿を見て、他の兵士たちも、我先にとカップを差し出す。あちこちで湯気が立ち上り、驚きの声と、熱心にシチューを啜る音、そして安堵のため息が響き渡った。

 「手足の感覚が戻ってきたぞ……」

 「ただの干し肉とは比べ物にならん……!」

 先ほどまで諦めの色に染まっていた彼らの瞳に、みるみるうちに生気と活力が戻っていく。頬には血の気が差し、その表情は驚きから、純粋な喜びへと変わっていった。

 その光景は、どんな雄弁なプレゼンテーションよりも、力強い説得力を持っていた。

 私は、呆然と立ち尽くすマルクス大尉を一瞥し、そして、静かに全てを見ていたアレスティード公爵へと視線を向けた。

 彼は、何も言わなかった。

 ただ、その感情の読めない氷の瞳が、私の手元にある小さな布袋と、活気を取り戻した兵士たちの顔を、そして最後に私の顔を、何かを確かめるように、鋭く、そして深く捉えていた。

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