第50話 私の家
降り続いていた冷たい雨は、いつの間にか上がっていた。分厚い雲の切れ間から、澄んだ月光が中庭の濡れた石畳を銀色に照らしている。嵐は、過ぎ去ったのだ。実家から持ち込まれた嵐も、私の心の中を吹き荒れていた嵐も、今はもう、遠い場所にある。
執務室の巨大な暖炉の前。私とアレスティード公爵は、それぞれの肘掛け椅子に深く身を沈め、言葉もなく炎を見つめていた。パチ、パチ、と乾いた薪がはぜる音だけが、心地よい静寂を優しく満たしている。
マーサは屋敷での新しい生活に少しずつ慣れ、厨房の若い侍女たちに昔ながらの保存食の作り方を教えたりしている。公爵の法務チームによる調査は一段落し、分厚い報告書は鍵のかかる書庫に厳重に保管された。いつでも反撃できる切り札を手に入れたことで、屋敷には以前にも増した落ち着きが戻っていた。
私は、侍女が用意してくれたハーブティーのカップを両手で包み込んだ。指先に伝わる温かさが、じんわりと心にまで染み込んでくるようだ。この静けさが、この温かさが、私にとって何よりの宝物だった。
ふと、隣のアレスが、暖炉の炎から目を離さないまま、静かに口を開いた。
「……後悔は、していないか」
その声は低く、抑揚がなかった。だが、それは詰問ではなかった。血を分けた家族を、過去を、完全に切り捨てるという決断を下した私の心の奥底を、そっと覗き込むような、不器用な問いかけだった。彼は、私が無理をしていないか、見えない傷を隠していないか、それを確かめようとしているのだ。
私は、揺らめく炎を見つめながら、ゆっくりと首を横に振った。
*
「いいえ。少しも」
私の答えは、自分でも驚くほど、穏やかで、迷いのない響きを持っていた。
後悔。あるのかもしれない。もっと違う道があったのではないか、と考える夜が、これから先、一度もないとは言い切れない。けれど、それはもう、私の進むべき道ではなかった。あの息の詰まる場所で、「いい子」の仮面を被り、自分をすり減らし続ける人生は、もう選ばない。
私は、ティーカップをソーサーに静かに置いた。カチャリ、という小さな音が、部屋の静けさに吸い込まれていく。
そして、彼の横顔を見つめた。彼はまだ、炎を見ている。その横顔に、領地を統べる領主の厳しさと、時折見せる、孤独の影が落ちていた。
「なぜなら」
私は、言葉を続けた。
その声に、彼がゆっくりと私の方へ顔を向けた。感情の読めない、静かな瞳。その氷のような瞳を、私はまっすぐに見つめ返して、微笑んだ。それは、無理に作った笑顔でも、社交辞令の微笑みでもない。心の底から湧き上がってきた、ありのままの感情だった。
「私の家は、もうここにありますから」
*
私の言葉を聞いたアレスの瞳が、ほんのわずかに、見開かれた気がした。
いつもは硬く結ばれている彼の唇が、一瞬だけ、緩んだようにも見えた。それは気のせいだったのかもしれない。けれど、彼の瞳の奥で、暖炉のオレンジ色の炎が、これまで見たことがないほど、温かく、そして深く揺らめいていたのは、確かだった。
彼は何も言わなかった。私も、それ以上は何も言わなかった。
言葉は必要なかった。
ただ、二人の間に流れる沈黙が、先ほどまでとは比べ物にならないほど、優しく、満ち足りたものに変わっていた。
捨てたのではない。選んだのだ。
この温かい暖炉のある場所を、私の、本当の家として。
私は再びティーカップを手に取り、その温もりを確かめるように、ゆっくりと口に含んだ。ハーブの優しい香りが、胸いっぱいに広がっていった。
今回はちょっと短めです。これ以上くっつけると蛇足っぽいのでここで区切ります。代わりに本日22時にもう一話上げます。




