第49話 集まる証拠の欠片
マーサが屋敷に来てから、五日が過ぎた。
医師の診察を受けた彼女は、幸いにも大きな病はなく、極度の疲労と栄養不足と診断されただけだった。フィーの計らいで日当たりの良い暖かい部屋を与えられ、毎日滋養のある食事を摂るうちに、その顔色は見る見るうちに良くなっていった。青白く強張っていた表情は和らぎ、昔のように穏やかな笑みを浮かべる時間も増えてきた。
その日の午後、私は厨房で焼き上げたばかりの、リンゴとシナモンの香りがする温かいケーキを一切れ持って、彼女の部屋を訪れた。
「マーサ、調子はどう?」
「まあ、奥様。わざわざありがとうございます」
窓辺の椅子に座って中庭を眺めていたマーサは、嬉しそうに顔をほころばせた。私が差し出したケーキを、まるで宝物のように受け取る。
「こんなに美味しいものを毎日いただいて…夢のようです。ラトクリフのお屋敷では、もう何ヶ月も、まともな食事は…」
言いかけて、彼女ははっと口をつぐんだ。私の前で、実家の悪口を言うことをためらったのだろう。
「いいのよ、マーサ。もう、あそこはあなたの家ではないのだから」
私がそう言うと、彼女は少しだけ俯き、そして意を決したように顔を上げた。
「奥様。…ずっと、お渡ししなければと思っていたものが、ございます」
彼女はそう言うと、ベッドの脇に置かれた小さな木箱から、油紙で丁寧に包まれた、手のひらほどの大きさの平たい包みを取り出した。それは、長年隠し持っていたことが分かるほど、くたびれて変色している。
「これは…?」
「お嬢様がいつか、きっとお困りになる時が来るのではないかと…。ずっと、私の部屋の床下に隠しておりました」
マーサは、震える手でその布包みを私に差し出した。ずしりとした重みはないが、彼女の長年の覚悟の重みが、私の手に伝わってくるようだった。
*
私は包みを受け取り、ゆっくりと油紙を解いた。中から現れたのは、古びた帳簿から破り取られたのであろう数ページの紙片と、数枚の領収書の写しだった。
紙片には、見慣れた継母の、飾り気の多い流麗な筆跡が並んでいる。それは、彼女が管理していた家計簿の一部だった。そして、領収書の写しは、王都でも有名な高級ドレス店や宝石店のもの。
一見すれば、ただの古い紙切れだ。だが、前世で会社の経費精算を嫌というほど見てきた私の目には、そこに隠された不正がはっきりと見えた。帳簿に「来客用のリネン代」として記載されている日付と金額が、ドレス店の領収書の日付と金額に、奇妙なほど一致している。伯爵家の公的な支出に見せかけて、継母が自分の私的な贅沢品を購入していた、動かぬ証拠だった。
「奥様が…奥様がまだお屋敷にいらっしゃった頃、旦那様は奥様に家のことを何も任せようとはなさいませんでした。ですが、奥様はいつも、帳簿の数字が合わないことを、こっそりと見抜いておいででした」
マーサは、私が帳簿を破り捨てたのだと誤解されないよう、必死に説明した。
「これは、奥様が厨房のゴミ箱に捨てたものを、私が拾い集めたものでございます。きっと、何か理由がおありなのだと…」
私は息を呑んだ。継母は、自分の不正の証拠を、定期的に破り捨てていたのだ。そしてマーサは、その危険を冒してまで、私のために証拠の欠片を拾い集め、守り抜いてくれていた。
「ありがとう、マーサ。あなたの勇気に、心から感謝するわ」
私は紙片を再び丁寧に包み、立ち上がった。これを持って、行くべき場所は一つしかない。
*
アレスティード公爵の執務室の扉をノックすると、いつもより少し間があってから、重々しい声が聞こえた。
中に入ると、部屋の空気は張り詰めていた。巨大な執務机の上には、普段の数倍もの書類や羊皮紙の巻物が山と積まれ、壁にはラトクリフ伯爵領周辺の広域地図が広げられている。公爵は、法務官と思われる初老の男たち数人と、何やら難しい顔で議論を交わしている最中だった。
私の姿を認めると、彼は法務官たちに目配せで下がらせた。彼らは私に一礼し、静かに部屋を出ていく。
「…何か、進展があったようだな」
公爵は、私が手にしている包みに目を留め、静かに言った。彼がすでに、私の知らないところで、ここまで深く調査を進めていたことに、私は驚きを隠せなかった。
私は無言で彼の机まで進み、マーサから受け取った包みを解き、中の紙片を彼の前に広げた。
公爵は、その古びた紙切れを一枚一枚、鋭い目で検分していく。そして、積み上げられた自身の調査書類の山から、分厚いファイルを取り出し、そのページをめくった。彼の指が、ある一点を指し示す。それは、彼の法務チームが金の流れから割り出した、使途不明金のリストだった。
マーサが命がけで守った帳簿のページと、公爵の調査チームが割り出した数字が、パズルのピースがはまるように、完璧に一致した。
公爵は全ての紙片に目を通し終えると、静かに顔を上げた。そして、私に向かって、確信に満ちた声で言い放った。
「これで、全てのピースが揃った。向こうがどんな手を使ってきても、法の下で返り討ちにできる」
その言葉は、絶対的な自信に裏打ちされていた。私は、目の前に広がる光景を見つめた。公爵の権力が集めた、山のような調査書類。そして、私の手の中にある、名もなき老侍女の勇気が守り抜いた、数枚の紙切れ。
巨大な権力と、個人のささやかな勇気。その両方が、今、私を守るための、何よりも強固な盾となって、ここに揃っていた。




