第48話 過去からの逃亡者
その夜は、冷たい雨が執拗に窓ガラスを叩いていた。暖炉の火がパチパチと音を立て、部屋の中には穏やかな温もりと乾燥した木の香りが満ちている。この屋敷に来てから、雨の夜は嫌いではなくなった。外の荒々しい音が、かえってこの場所の静けさと安全さを際立たせてくれるからだ。
私が読みかけの本を閉じ、お茶を淹れようと立ち上がった、その時だった。
遠くで、重い扉を叩く音が、微かに響いてきた。一度、二度。こんな夜更けに、表の正門からではない、裏門からの来訪者など滅多にない。侍女たちが対応するだろうと、一度は腰を下ろしかけたが、胸の内で小さな何かがざわめいた。
しばらくして、侍女の一人が慌てた様子で私の部屋の扉をノックした。
「奥様、お休みのところ申し訳ありません。裏門に、奥様にお会いしたいと仰るご婦人が…」
訝しく思いながら侍女についていくと、使用人用の玄関には、ずぶ濡れになった老婆が一人、小さな荷物を抱えて震えながら立っていた。使い古された旅のマントは泥に汚れ、そこから滴る雨水が石の床に黒い染みを作っている。顔は疲労と恐怖で青白く、深く刻まれた皺が、その過酷な旅路を物語っていた。
「…どなたかしら」
私が問いかけると、老婆は怯えたように顔を上げた。そして、私の顔をじっと見つめると、その瞳が大きく見開かれた。
「……レティシア、お嬢様…?」
掠れた、懐かしい声。その呼び方。私の脳裏に、遠い昔の記憶が稲妻のように蘇った。私がまだ幼かった頃、継母に叱られて一人で泣いていた庭の隅で、そっと温かいミルクとクッキーを差し出してくれた、皺くちゃの優しい手。
「…マーサ?」
私の口からこぼれた名前に、彼女はこらえきれないといった様子で、その場に泣き崩れた。
*
私はマーサを厨房へ連れて行った。今はもう火が落ちて静まり返っているが、ここが一番落ち着くだろうと思ったからだ。フィーがすぐに乾いた服と厚い毛布を用意してくれ、私は残っていたスープを温め直した。
暖炉の前の椅子に座り、毛布にくるまったマーサは、小さな子供のように体を震わせながら、温かいスープを一口、また一口と、ゆっくりと口に運んでいく。その震えが、寒さだけが原因ではないことは明らかだった。
やがて、器が空になる頃には、彼女の顔に少しだけ血の気が戻っていた。そして、堰を切ったように、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「お屋敷は…もう、めちゃくちゃでございます…」
マーサの話すラトクリフ家の惨状は、私の想像を遥かに超えていた。
「旦那様は毎日お酒に溺れ、奥様は気に入らないことがあると、物に当たって叫んでおいでです。借金取りと名乗る、柄の悪い男たちがお屋敷をうろつき、高価な調度品には、いつの間にか差し押さえの札が貼られて…」
給金は、もう三ヶ月も支払われていないという。他の使用人たちも、次々と辞めていった。
「セシリアお嬢様は…」とマーサは声をひそめた。「ずっとご自分の部屋に閉じこもったきりで、時折、部屋の中から氷が砕けるような、恐ろしい音が聞こえてくるのです。先日、侍女の一人が無理に扉を開けようとしたら、扉が取っ手ごと凍りついてしまいまして…」
魔力暴走。私の供給がなくなったことで、セシリアの不安定な魔力は、もはや制御が効かなくなっているのだ。私は黙って、マーサの震える手の上に、自分の手を重ねた。
「…命からがら、逃げてまいりました。行く当てもなく、ただ…お嬢様のことだけを思い出して…」
私は彼女の話を最後まで聞き終えると、静かに立ち上がった。
「マーサ。少しここで待っていて。フィー、彼女のことお願いね」
*
アレスティード公爵の執務室の灯りは、まだ点いていた。私がノックをすると、中から「入れ」という低い声が返ってくる。
部屋に入ると、彼は書類から顔を上げ、私の深刻な表情を見て、わずかに眉を寄せた。執事長のブランドンも、脇の机で作業をしていたが、私の気配に立ち上がった。
私は、感情を交えずに、事実だけを簡潔に伝えた。ラトクリフ家の元侍女であるマーサが屋敷を訪れたこと。彼女が置かれている状況。そして、彼女が他に身寄りのないこと。
話し終えると、私は公爵をまっすぐに見つめ、頭を下げた。
「お願いがございます。彼女を、この屋敷で保護していただけないでしょうか。使用人としてでなくとも構いません。ただ、彼女が安心して眠れる場所を…」
公爵はしばらく黙って私を見ていたが、やがて視線をブランドンに移した。
「ブランドン」
「はっ」
「その者は、ラトクリフ家の籍を離れているのだな」
「はい。給金の未払いと劣悪な労働環境を考えれば、事実上の解雇、あるいは雇用契約の破綻と見なせます」
「そして、我が領地内に助けを求めてきた」
「その通りでございます」
公爵は、再び私に視線を戻した。その瞳に、感情の色は読めない。だが、彼の言葉は、私の予想を遥かに超えて、明確だった。
「ならば、問題ない。彼女はもはやラトクリフ家の使用人ではない。保護を求めるアレスティード領の、一人の民だ。空いている部屋を与え、必要なものを全て支給しろ。医師の診察も受けさせろ」
それは、私的な情ではなく、領主としての公的な決定だった。だが、その決定が、何よりも私の心を救ってくれたことを、彼はおそらく知っているのだろう。
厨房に戻ると、フィーが淹れてくれた温かいミルクティーを、マーサが両手で大切そうに持って飲んでいた。私が戻ってきたことに気づくと、彼女は安堵したように、ほっと息をついた。
「マーサ、心配いらないわ。あなたは今日から、この家の一員よ」
私の言葉に、マーサの目から、また涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。彼女は私の手を取り、自分の皺の多い、けれど温かい手で、そっと握りしめた。
「レティシアお嬢様……。あなたのその温かさは、何も、変わっておられませんな…」
その言葉が、私の胸の奥に、じんわりと染み込んでいった。




