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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第46話 社交界の毒矢

 あの夜以来、私の心は凪いでいた。過去の悪夢は、夜明けと共に厨房の熱気の中へ消えていく。私はもう、あの無力な子供ではない。この手で温かいパンを焼き、この場所を守ると決めたのだから。

 その日の午後、私は侍女長のフィーと共に、冬に向けての保存食の在庫を点検していた。棚にずらりと並んだ瓶詰めの果実や塩漬けの肉は、この屋敷の豊かさと、来るべき厳しい季節への備えの象徴だ。

 「奥様、今年のベリージャムは特に出来が良いようです。兵舎のパンにも少し融通してあげたら、皆、大喜びでしょうね」

 フィーが楽しそうに言う。私も微笑み返し、帳簿にペンを走らせた。穏やかで、満ち足りた時間。私がずっと心のどこかで渇望していた、何でもない日常。

 その静寂を破ったのは、廊下を慌ただしく駆けてくる足音と、それを咎める侍女の声だった。

 「お客様!アポイントメントがなければ、奥様には…!」

 「そんな悠長なことを言っている場合ではないのよ!」

 勢いよく保存庫の扉が開け放たれ、そこに立っていたのは、息を切らせたエレオノーラ伯爵令嬢だった。いつもは完璧に結い上げられている髪が少し乱れ、その頬は怒りと焦りで紅潮している。彼女のこんな姿は、初めて見た。

 「レティシア!あなた、聞いているの!?」

 私の返事を待たず、彼女は部屋に踏み込んできた。その手には、くしゃくしゃに握りしめられた一通の手紙がある。

 「一体どうしたの、エレオノーラ。そんなに慌てて」

 私が落ち着いて尋ねると、彼女は信じられないという顔で私を見た。

 「どうしたの、ですって!? あなたの継母が、社交界でとんでもない嘘を吹聴して回っているのよ!」



 客間に通されたエレオノーラは、私が差し出したハーブティーには目もくれず、一気に捲し立てた。その内容は、私の想像を遥かに超えて、悪意に満ちたものだった。

 「まず、『アレスティード公爵夫人は、実の親と病気の妹が経済的な窮地に陥っているのを知りながら、一銭の援助も拒み、見殺しにしている』。これが基本路線よ」

 エレオノーラは、忌々しげにテーブルを指で叩いた。

 「それだけじゃないわ。『氷の公爵に嫁いで、すっかり人の心を失ってしまった』だとか、『あれほどの贅沢な暮らしを許されているというのに、自分を育ててくれた家族への恩も忘れた、冷酷な恩知らずだ』とか…。聞くに堪えないわ!」

 彼女が語る言葉の一つ一つが、見えない毒矢のように、私の胸に突き刺さる。

 人の心を失った。冷酷。恩知らず。

 それは、かつて私が最も恐れていた言葉だった。「いい子」でいなければ、そう罵られるのだと、ずっと信じ込まされてきた。

 「ひどいのは、そのやり方よ」とエレオノーラは続けた。「彼女、涙ながらに語るんですって。『あの子は昔から我慢強い子でした。きっと、北の厳しい暮らしと、血も涙もないと言われる公爵様との生活で、心が凍えてしまったのでしょう。母親である私の力不足です』なんて言いながらね。同情を買うのが、本当に上手いのよ、あの女狐は」

 なるほど、と思った。直接私を非難するのではなく、自分を悲劇の母親として描き、私を「可哀想な、心の壊れた娘」に仕立て上げる。そうすれば、噂はより真実味を帯びて、人々の間に浸透していく。継母の、昔から得意な手口だった。

 以前、私の味方になってくれた貴婦人たちも、さすがに家族を見捨てるという話には顔を曇らせているという。社交界の空気というものは、一度温まったかと思えば、またすぐに冷えていく。人の心とは、かくも移ろいやすいものか。

 私は黙って、自分の分のカップに紅茶を注いだ。カモミールの優しい香りが、ふわりと立ち上る。私の手は、幸いにも震えてはいなかった。



 「…レティシア? 聞いているの? 何とか言ったらどうなの!」

 私の沈黙に、エレオノーラが苛立ったように声を上げた。彼女は本気で私のことを心配してくれている。そのことが、冷えかけた心に温かい火を灯してくれた。

 私はゆっくりと顔を上げ、彼女に向かって微笑んだ。

 「ええ、聞いているわ。ありがとう、エレオノーラ。私のために、そんなに怒ってくれて」

 「怒るわよ!これはあなただけの問題じゃない。アレスティード公爵家の名誉にも関わることよ。すぐにでも公式に声明を出して、その噂を否定しないと…!」

 「いいえ」と私は、彼女の言葉を静かに遮った。「言葉で否定しても、効果はないわ。火に油を注ぐだけよ。彼らは、私が慌てて反論する姿を見て、さらに面白がるでしょうから」

 「じゃあ、どうするのよ!このまま黙って、悪女の汚名を着せられ続けるつもり?」

 私はカップをソーサーに置き、立ち上がった。そして、窓辺へ歩み寄り、手入れの行き届いた庭を見下ろす。兵士たちの訓練の声が、遠くから微かに聞こえてきた。この屋敷の、力強い日常の音だ。

 私は振り返り、不安そうな顔で私を見つめる親友に向かって、もう一度、今度はもっと確かな微笑みを浮かべた。

 「ありがとう、エレオノーラ。知らせてくれて。……面白い。ならば、受けて立ちましょう。言葉ではなく、私のやり方で」

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