第45話 私の線
その夜、私は夢を見た。
ひんやりとしたシーツの感触が、遠い昔の記憶の扉を開ける。
薄暗い子供部屋。私はベッドの脇に座り、小さな手――異母妹セシリアの、氷のように冷たい手を両手で包み込んでいる。セシリアは熱に浮かされたように、か細い声で喘いでいた。魔力がうまく循環せず、その身を内側から凍らせようとする発作だ。
「大丈夫よ、セシリア。私が温めてあげるから」
幼い私は、必死だった。自分の持つ、触れたものの温度と巡りを整える「温導質」の力を、祈るように注ぎ込む。私の体温と魔力が、濁流のように彼女の中へ吸い取られていく。ひどい倦怠感と目眩。それでも、私は手を離さなかった。
セシリアの苦しげな呼吸が、次第に穏やかな寝息に変わっていく。血の気のなかった頬に、ほんのりと赤みが差す。その顔を見て、私は心の底から安堵していた。
役に立てた。
「いい子」でいられた。
父様と、お母様に褒めてもらえる。ここにいていいのだと、許してもらえる。
その満足感に浸った瞬間、夢の中のセシリアが、ふっと目を開けた。その瞳は子供のものではなく、底なしの暗闇をたたえて、私をじっと見つめている。そして、にっこりと、残酷なほど無邪気に微笑んだ。
「お姉様は、我慢強いものね」
ぞくり、と背筋が凍った。
はっと息を呑んで目を開けると、そこはアレスティード公爵家の、私の寝室だった。窓から差し込む月明かりが、静かな部屋を青白く照らしている。心臓が、嫌な音を立てて脈打っていた。
私はゆっくりと身を起こす。自分の愚かさに、乾いた笑いがこみ上げた。
あの頃の私は、あれを優しさだと信じていた。姉としての、家族としての愛情なのだと。だが、違う。あれはただの自己満足。見捨てられる恐怖から逃れるための、惨めな取引に過ぎなかった。
*
私はベッドから抜け出し、足音を忍ばせて窓辺に立った。ひやりとした夜気が、火照った頬に心地よい。
窓の外には、静まり返った中庭が広がっている。私が手入れを始めた花壇のハーブが、月光を浴びて銀色に光っていた。
セシリアを助けることと、彼女の依存の対象であり続けることは、全く違う。
頭では、ずっと分かっていた。情に流されれば、私はまたあの息苦しい日々に逆戻りだ。私の魔力を、存在を、際限なく吸い上げるだけの「道具」に。
それでも、心のどこかで、あの冷たい手を振り払うことへの罪悪感が、古い傷のように疼いていた。私がいなければ、あの子は。その思考こそが、父と継母が私にかけた、最も強力な呪縛だった。
もう、惑わされない。
私は、私自身の人生を生きると決めたのだ。
この静かな夜を、穏やかな日々を、誰にも奪わせはしない。
じっと窓の外を見つめていると、いてもたってもいられなくなった。何かを、この手で作りたかった。自分の意志で、自分の力で、温かい何かを。
私は部屋を出て、明かりの消えた長い廊下を、厨房へと向かった。
*
厨房の石造りの床は、素足には少し冷たかった。だが、その冷たさが、私の頭をはっきりと覚醒させてくれる。
私は大きな作業台の上に、小麦粉の袋を置き、その白い粉を山のように広げた。酵母と、少しの塩と砂糖。ぬるま湯を注ぎ、指先でゆっくりとかき混ぜていく。
最初はべたついていた生地が、捏ねるうちに、次第に一つの塊としてまとまっていく。私は体重をかけ、生地を力強く押し、折りたたみ、再び叩きつける。
ドン、という鈍い音が、静寂な厨房に響く。
それは、私の心の中の迷いを一つずつ、振り払っていく作業のようだった。
セシリアへの憐れみ。父への微かな期待。継母に植え付けられた罪悪感。
ドン。
もう、あなた達の「いい子」にはならない。
ドン。
私は、私の価値を、自分で決める。
何度も、何度も繰り返すうちに、生地は私の手の熱を吸って、生き物のように滑らかな弾力を持つようになった。額に汗が滲む。乱れていた呼吸は、いつの間にか、生地を捏ねるリズムと一つになっていた。
生地を丸め、濡れ布巾をかけて一次発酵させている間、私は窯に火を入れた。オレンジ色の炎が、暗い厨房を温かく照らし出す。この炎の色は、私を安心させてくれる。
やがて、ふっくらと膨らんだ生地のガスを抜き、いくつかに分割して丸め直す。その一つ一つが、愛おしい。
成形した生地を天板に並べ、窯の中へ滑り込ませた。
あとは、待つだけだ。
私は窯の前に椅子を持ってきて、座り込んだ。炎の揺らめきを見つめていると、やがて、何にも代えがたい香ばしい匂いが、厨房に満ち始めた。
小麦が焼ける、甘い匂い。
それは、この場所が私の「今」なのだと、何よりも雄弁に教えてくれる香りだった。
焼き上がったパンを、厚いミトンをはめた手で取り出す。見事なきつね色に膨らんだ、不格好だけれど、温かいパン。
私はそのうちの一つをちぎり、湯気の立つ断面を、ふうふうと冷ましてから口に運んだ。
外側はカリッとしていて、中は驚くほど柔らかく、優しい甘さがじんわりと体に染み渡っていく。
温かい。
ああ、なんて、温かいのだろう。
私は自分の両手を見つめた。夢の中で、セシリアの冷たい手を握っていた、この手。
私のこの手は、もう誰かの犠牲になるためにあるのではない。この温かい場所を、守るためにあるのだから。




