第44話 見えない盾
奥様が実家からの手紙を携え、閣下の執務室へ向かわれたあの日から、屋敷の空気は奇妙な静けさに包まれていた。
表面上は、何も変わらない。
奥様は翌朝もいつも通りの時間に厨房に立ち、その日の献立について料理人たちと打ち合わせをされていた。その横顔は穏やかで、声にも張りがあった。新しく試作するという、根菜と干し肉のパイ生地包みについて、熱心に説明する姿は、いつもの「厨房を預かる公爵夫人」そのものだった。
だが、長年この屋敷に仕えてきた私や、侍女長のフィーのような古株には、その平静さが、むしろ痛々しいほどの覚悟の上に成り立っていることが分かった。時折、スープの味見をするスプーンを持つ手が、ほんの一瞬だけ止まる。遠くの窓の外に視線を投げた時、その瞳の奥に、ふっと暗い影がよぎる。
誰も、そのことには触れなかった。
我々使用人は、奥様が自らの手で過去との決別を果たされたことを、敬意をもって見守っていた。我々がすべきは、この屋敷が彼女にとって、真に安らげる「家」であり続けるよう、日々の務めを完璧にこなすことだけだ。
しかし、我らが主君は、ただ静観するだけの御方ではなかった。
*
その日の午後、私はアレスティード公爵閣下に執務室へと呼び出された。
「失礼いたします」
重厚な扉を開けると、閣下はいつものように、山と積まれた書類の向こうでペンを走らせていた。私が正面に立つと、彼は顔を上げることなく、低い声で命じた。
「ブランドン。法務官を全員集めろ」
その言葉に含まれた、氷のような硬質さに、私は背筋を伸ばした。これは、通常の領地経営に関する案件ではない。
「は。直ちに」
私が応えると、閣下はそこで初めてペンを置き、灰色の瞳を私に向けた。その瞳は、凍てついた湖面のように、一切の感情を映してはいなかった。
「ラトクリフ伯爵家の全資産と負債を洗い出せ」
命令は、簡潔かつ網羅的だった。
「関連する全ての契約書、金の流れ、その背後にいる人間まで、徹底的にだ。どんな些細な情報も見逃すな。期間は、過去十年間に遡る」
私は息を呑んだ。それは、もはや調査というより、一つの貴族家を丸裸にするための解剖に等しい。ラトクリフ家が、閣下の逆鱗に触れたことは明白だった。
だが、続く言葉は、私の予想を裏切るものだった。
「それと、この件は、レティシア夫人には一切知らせるな」
私は、はっと顔を上げた。
閣下は、奥様が実家を切り捨てたことへの報復を、彼女の知らぬところで行おうとされているのか? いや、違う。この御方は、そのような無意味な示威行為をされる方ではない。
ならば、この命令の真意は。
思考を巡らせる私の心を読んだかのように、閣下は静かに続けた。
「……追い詰められた鼠は、何を仕出かすか分からん。あらゆる可能性を想定し、先手を打つ。それだけだ」
その瞬間、私は主君の意図の全てを理解した。
これは、攻撃ではない。完璧なまでの、防御なのだ。
追い詰められたラトクリフ家が、今後、奥様に対してどのような法的、あるいは非合法的な手段で危害を加えようとしてくるか分からない。婚姻の無効を訴えるか、過去の恩義を盾に金銭を要求する訴訟を起こすか。どんな手を使ってきても、それを法の下で完璧に、そして冷徹に迎撃するための、分厚い盾を準備されているのだ。
奥様が、二度と過去のことで心を痛めることがないように。彼女が自ら下した決断を、誰にも汚させないために。
口には出さず、行動で示す。これこそが、我が主君アレスティード公爵のやり方だった。
*
「御意。直ちに手配いたします」
私は深く一礼し、執務室を辞去した。
重い扉を閉める直前、私は見た。
閣下が席を立ち、窓辺へと歩み寄るのを。その窓からは、中庭がよく見渡せる。
中庭では、奥様が侍女たちと共に、冬に備えてハーブを摘んでいた。午後の柔らかな日差しを浴びて、楽しそうに微笑む横顔が見える。
閣下は、その姿を、ただ静かに見つめていた。
腕を組み、微動だにせず、まるで領地を視察する時のように。
だが、その背中から伝わってくるものは、領主としての厳格さではなかった。
その視線は、氷のように冷徹な領主のものではない。
ただ一つのものを、その手に届く全ての力で守り抜こうと決めた、一人の男のそれだった。




