第42話 呪縛の残響
夕暮れの厨房は、一日のうちで最も活気づく時間だ。
私は硬いカボチャに包丁を入れ、均等な厚さに切り分けていく。トントントン、と小気味よい音が、調理台に響き渡る。隣では、若手の料理人が鶏肉の筋を丁寧に取り除き、別の場所では、大きな鍋でことことと煮込まれるスープの、食欲をそそる香りが湯気と共に立ち上っていた。
この場所にいると、余計なことを考えずに済む。
昼間に読んだエレオノーラからの手紙。そこに書かれていた、破滅へと向かう実家の姿。それらを頭の隅に追いやり、私は目の前の作業に意識を集中させた。
今夜の公爵の夕食は、鶏肉の香草焼き。付け合わせは、このカボチャを使った温野菜のサラダ。それから、きのこをたっぷり入れたクリームスープ。彼の体はまだ、脂分の多い食事や、消化の悪いものをたくさんは受け付けない。だから、少しずつ、彼の胃が驚かないように、それでいて満足感が得られるように、献立を組み立てる。
この作業は、まるで精密な機械を組み立てるようで、私の性に合っていた。
カボチャを切り終え、蒸し器に入れる。鶏肉の下味を確認し、焼き加減を指示する。スープの味見をして、ほんの少しだけ塩を加える。全てが計画通りに進んでいく。この段取りの良さが、思考をクリアにしてくれる。そうだ、私は今、ここにいる。過去は関係ない。
そう自分に言い聞かせた、その時だった。
「……顔色が悪い」
背後から、低く、温度の低い声がした。
びくりと肩が跳ねる。振り返ると、いつの間に来たのか、アレスティード公爵が腕を組んで厨房の入り口に立っていた。料理人たちが一斉に緊張し、空気が張り詰めるのが分かった。
彼の灰色の瞳が、私をじっと射抜いている。その視線は、まるで私の心の中まで見透かしているようで、居心地が悪い。
「気のせいですわ、閣下。厨房の熱気のせいかもしれません」
私は平静を装い、微笑んでみせる。だが、彼の疑うような視線は変わらなかった。彼は私の嘘を見抜いている。でも、それを追及する言葉は、彼の口からは出てこない。ただ、静かに私を見ているだけ。その沈黙が、どんな詰問よりも重くのしかかった。
「……そうか」
やがて彼は短くそう言うと、私から視線を外し、厨房全体を見渡した。その一瞥だけで、料理人たちの背筋がさらに伸びる。
「邪魔をしたな」
それだけを残し、彼は音もなく踵を返して去っていった。嵐のような登場と、凪のような退場。残されたのは、張り詰めた空気と、私の胸に残る小さなさざ波だけだった。
なぜ、彼はここに?
その答えは、彼のすぐ後を追うように現れた人物によって、もたらされた。
*
執事長のブランドンが、無表情のまま私に近づき、一礼した。その手には、薄い書類の束が握られている。
「奥様。先ほど王都から届いた、定時連絡の報告書です。閣下の指示により、ご確認を」
「私に、ですか?」
公爵家の運営に関する報告書を、私が見ることは滅多にない。ブランドンは静かに頷き、書類を私に手渡した。
「はい。特に、こちらの項目について、奥様のお目通しを、と」
彼が指し示したのは、報告書の末尾近くにある、『王都貴族社会の動向』という項目だった。そこに、見慣れた名前を見つけ、私の心臓がどきりと跳ねる。
『――ラトクリフ伯爵家、次女セシリア嬢。昨夜、侯爵家主催の夜会にて、感情の昂ぶりにより魔力が不安定化。周囲にあった複数のワイングラスを瞬間的に凍結させ、破損させる事案が発生。幸い負傷者はなし。魔力暴走の初期兆候と見られ、周囲は一時騒然となるも、大事には至らず――』
報告は、淡々とした事実だけを記していた。
けれど、その乾いた文字の向こうに、私は鮮明な光景を見た。パリン、と甲高い音を立てて砕け散る、氷のグラス。周囲の驚きと恐怖の視線。そして、その中心で、真っ青な顔をして立ち尽くす、幼い妹の姿。
指先が、また冷たくなっていく。
「……承知しました。確認しましたわ。ありがとう、ブランドン」
私は、声が震えるのを必死でこらえ、書類を彼に返した。ブランドンは何も言わず、それを受け取ると、再び深く一礼して厨房を去っていった。
公爵は、これを知っていたのだ。そして、私がこの情報をどう受け止めるか、確かめるために、わざわざ厨房まで足を運んだのだ。
私は、調理台に手をついて、ぐらつきそうになる体を支えた。スープの温かい香りが、今はなぜか、ひどく遠いものに感じられた。
*
その夜、私は自室に戻っても、なかなか寝付けなかった。
暖炉の火はとっくに消え、部屋の中はしんと静まり返っている。窓の外から差し込む月明かりが、床に冷たい模様を描いていた。
目を閉じると、忘れていたはずの感覚が、亡霊のように蘇ってくる。
幼いセシリアの、氷のように冷たい指。熱に浮かされ、苦しそうに喘ぐ妹。その手を握り、私は必死に自分の魔力を注ぎ込んだ。「大丈夫、大丈夫よ、セシリア。お姉様が温めてあげるから」。
私の体から温かいものが流れ出ていくのと引き換えに、セシリアの呼吸は穏やかになっていく。彼女の苦しみが和らぐのを見て、私は安堵した。役に立てた。「いい子」でいられた。そう、満足していた。
けれど、その安堵の裏側で、いつも私を襲うのは、ひどい倦怠感だった。体中の熱を奪われ、指一本動かすのも億劫になるほどの、重い疲労。
「お姉様だけが頼りなの」
甘く、無邪気に私に寄りかかる妹の声が、耳の奥で響く。
違う。あれは頼りにされていたのではない。私はただ、彼女の魔力を安定させるための、便利な道具だっただけだ。私の体調も、私の意思も、関係ない。ただ、求められるままに、差し出すだけの存在。
あの息苦しい日々には、もう二度と戻らない。
そう、頭では分かっている。分かっているのに、心の奥底で、小さな罪悪感が、ちくり、ちくりと私を刺す。
夜会で、たった一人、パニックになっていたであろう妹の姿を想像してしまう。あの時、私が隣にいてあげていたら。手を握って、魔力を少しだけ分けてあげていたら。
……何を考えているの、私は。
情に流されれば、また同じことの繰り返しだ。私はまた、あの冷たい部屋で、自分の体温を差し出すだけの道具に戻ってしまう。
私はベッドから起き上がると、自分の両手をぎゅっと握りしめた。月明かりに照らされた手は、青白く、頼りなく見える。
温かいはずの私の手が、記憶の中の冷たさに、じわじわと侵食されていくようだ。
「私はもう……」
声が、掠れていた。
「あなたのための道具じゃない」
私は、自分に言い聞かせるように、静かに、しかしはっきりと、そう呟いた。




