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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第41話 遠い嵐の報せ

 朝のダイニングに差し込む光は、まだ白く、冬の名残を帯びている。けれど、テーブルの上に並んだ食事からは、確かな温かい湯気が立ち上っていた。

 私の正面に座るアレスティード公爵が、静かに銀のフォークを手に取る。今日の朝食は、細かく刻んだ根菜とベーコンを入れた、ふわりと厚みのあるオムレツ。それに、昨夜のうちに仕込んでおいたライ麦パンを厚切りにして、軽く焼き直したもの。添えられたのは、カボチャのポタージュだ。

 カトラリーが皿に触れる、澄んだ音だけが響く。

 この屋敷に来たばかりの頃は、この沈黙が息苦しくてたまらなかった。けれど今は違う。言葉はなくとも、彼の食べるペースや、カップに注がれた紅茶が冷めないうちに口を付けるタイミングに、確かな安らぎを感じるようになっていた。

 彼は、私の作る温かい食事を、決して残さない。

 今日も、最後の一口まで綺麗にオムレツをすくうと、静かにパンをちぎってポタージュに浸した。その一連の動作に、以前のような義務感や戸惑いの色はもうない。ただ、そこにある食事を、当たり前のこととして受け入れている。

 その事実が、私の胸をじんわりと温めた。

 ここは、私の居場所だ。私が自分の手で、自分の意思で、温めてきた場所。誰かに強いられることも、誰かのために我慢することもない。この穏やかな食卓こそが、私が二つの人生をかけて、ようやく手に入れた自由そのものだった。

 彼がカップを置くのとほぼ同時に、私も最後の一口を飲み干す。完璧な朝だった。そう、この時までは。



 朝食を終え、私は侍女長のフィーと共に、中庭に面した明るい廊下で洗濯物の仕分けをしていた。乾いたリネンの香りが、ひんやりとした空気と混じり合って心地よい。

 「それにしても、今年の冬は布の傷みが少ないですわ。きっと、奥様が導入してくださった、あの温水を使う手洗いの工程のおかげですね」

 フィーが、分厚いテーブルクロスを丁寧に畳みながら、嬉しそうに言う。

 「冷たい水で無理にこすらなくなったから、繊維が切れにくくなったのよ。それに、みんなの手も荒れなくなったでしょう?」

 「はい!本当に。些細なことですのに、仕事がずっと楽になりました」

 そんな他愛もない会話を交わしていた時だった。ふと、フィーが思い出したように口を開いた。

 「そういえば奥様、お耳に入れましたか?王都のほうで、少し……その、穏やかではない噂が流れているそうで」

 「噂?」

 私が手を止めて聞き返すと、フィーは少し言いにくそうに視線を落とした。

 「奥様のご実家……ラトクリフ伯爵家のことでございます」

 その名を聞いた瞬間、私の指先から、すっと血の気が引いていくのが分かった。乾いたリネンの感触が、急に遠くなる。

 「……どのような?」

 声が、自分でも驚くほど平坦に出た。心の動揺を悟られまいと、私は再びリネンを畳む作業に戻る。

 「いえ、あくまで噂なのですけれど……。なんでも、懇意にしていた商会への支払いが、いくつか滞っているとか……。それで、少しばかり資金繰りが大変なのではないかと、商人たちの間で囁かれているそうでして」

 フィーは、私の顔色を窺うように、心配そうな声で付け加えた。

 捨てたはずの名前。切り離したはずの過去。それが、こんな形で私の日常に侵食してくる。心臓が、嫌な音を立てて脈打つのを感じた。

 私は、ゆっくりと息を吸い、そして吐き出した。大丈夫。もう、あの家は私とは関係ない。契約で、そう決まっている。

 「……そう。大変ですわね」

 私は、それだけを返した。声は、幸いにも震えていなかった。

 「奥様……?」

 「ありがとう、フィー。知らせてくれて。でも、心配はいらないわ。私にはもう、関係のないことですから」

 私が努めて穏やかに微笑むと、フィーはそれ以上何も言わず、ただ少しだけ、悲しそうな顔で頷いた。

 その日の午後まで、私の指先は、ずっと氷のように冷たいままだった。



 午後の執務室は、静かだった。

 私は、来月の厨房予算の最終確認作業に没頭することで、午前中の動揺を意識の外へ追い出そうとしていた。数字は嘘をつかない。インクの匂いと、紙の乾いた感触だけが、私の世界の全てだった。

 そこへ、侍女が慌てた様子で入室してきた。

 「奥様!エレオノーラ伯爵令嬢様から、至急の親展でございます!」

 差し出された手紙には、見慣れたエレオノーラの、流麗だがどこか尖った筆跡で私の名前だけが記され、封蝋がまだ新しいことを示していた。至急、親展。ただ事ではない。

 侍女を下がらせ、私はペーパーナイフで慎重に封を切った。中から現れた便箋には、彼女の焦りが滲み出たような、走り書きに近い文字が並んでいた。


 『レティシアへ。

 悠長な挨拶は抜きにします。今すぐ、あなたに知らせておくべきことがあるから。

 街で囁かれているラトクリフ家の噂、あなたの耳にも入っているかもしれないけれど、あれは真実よ。それも、噂より遥かに事態は深刻だわ』


 私の心臓が、再び嫌な音を立て始める。私はゴクリと唾を飲み込み、続きを読む。


 『あなたの継母が、王都で一番と名高い宝石商「グランディディエ」の代金を、もう半年近くも踏み倒しているそうよ。先日、ついに宝石商の主人が伯爵邸に乗り込んだけれど、追い返されたんですって。主人は激怒して、近々、貴族院に正式な訴えを起こすと言い放っていたわ。もしそうなれば、ラトクリフ家の信用は完全に地に落ちる』


 あの人の虚栄心は、相変わらずらしい。だが、問題はそれだけではなかった。


 『さらに、もっと愚かなのが、あなたのお父上よ。彼は新たな借金をするために、ほとんど価値のない痩せた領地を担保にしようと、金融ギルドに話を持ちかけたらしいの。もちろん、ギルドの鑑定士に一瞬で見抜かれて、けんもほろろに断られたそうよ。今や、王都の金融ギルドで、彼の名は「現実の見えない夢想家」として、笑いものになっているわ』


 便箋を持つ手が、微かに震えていた。

 フィーが運んできた噂は、嵐の前の、ほんの生ぬるい風に過ぎなかったのだ。本当の嵐は、もうすぐそこまで迫っている。そして、その嵐は、確実に破滅へと向かっていた。


 『レティシア、気をつけて。追い詰められた人間は何をするか分からない。彼らが、あなたに泣きついてこない保証はどこにもないわ。何かあれば、すぐに私に知らせて。いいこと?あなたはもう、一人ではないのだから。

 あなたの友人、エレオノーラより』


 私は、手紙を読み終えると、それをそっと机の上に置いた。

 窓の外は、雲一つない、穏やかな冬の午後だ。陽光が、執務室の床に明るい四角形を描いている。

 けれど、私の耳には、遠くでゴロゴロと鳴り響く、低い雷鳴が聞こえるような気がした。

 捨てたはずの過去。葬り去ったはずの呪縛。

 それが今、黒く、巨大な嵐となって、私がようやく手に入れたこの温かい場所へと、着実に近づいてきている。

 私は、エレオノーラからの手紙を、指先が白くなるほど、強く、強く握りしめた。

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