第40話 夜の訪問者
厨房の熱気が嘘のように、私の執務室は静かな夜の空気に満たされていた。
窓の外では、兵舎から聞こえていた陽気な声もとうに途絶え、今はただ風の音だけが、ガラスを静かに撫でていく。今日の勝利は、あまりにも鮮やかで、そしてあまりにも危ういものだった。一枚の氷の膜の上で、私たちは全力で踊りきったのだ。
机の上に広げた帳簿の数字が、ランプの光に揺れている。今日のグラタンに使ったチーズとパン粉の追加費用。凍らされた野菜の損害額。それらを差し引いても、なお余りある利益。兵士たちの士気という、数字には表せない最大の利益。
私はペンを置き、深く息を吐き出した。心地よい疲労が、体の隅々まで染み渡っている。
その時だった。
コン、コン。
控えめなノックの音が、静寂を破った。こんな時間に誰だろう。侍女のフィーなら、もっと遠慮のない音を立てるはずだ。
「……どうぞ」
声をかけると、侍女が一人、緊張した面持ちで入室した。
「奥様。夜分に申し訳ございません。……お客様が、奥様に内密にお会いしたいと」
「お客様?」
私の眉が、自然とひそめられる。こんな時間に、内密に。良い報せであるはずがない。ボルコフの新たな嫌がらせか、それとも。
「どなたですの?」
「それが……市参事会の、長老様だと」
その名を聞いて、私の背筋に冷たいものが走った。
規約委員会の委員長。あの氷の議場で、私に「条件付きの勝利」を言い渡した、領都の重鎮。彼が、なぜ。
「……お通しして」
私の心臓が、警鐘のように速鐘を打ち始めた。
*
数分後、執務室の扉が静かに開き、一人の老人が姿を現した。
市参事会の長老。豪奢だが華美ではない、上質な生地の長衣をまとった彼は、侍女に一瞥もくれず、部屋に入ると自ら扉を閉めた。その所作には、一切の無駄がない。
「夜分に失礼する、公爵夫人」
低いが、よく通る声。議場で聞いた時と同じ、感情の読めない声だった。
私は椅子から立ち上がり、静かにカーテシーを返した。
「長老様。このような時間に、どのようなご用件でございましょうか」
彼は私の探るような視線をものともせず、部屋の中央まで進み出ると、厳しい目で私を値踏みするように見つめた。
「昼間の件、見事であった」
それは、予想外の言葉だった。てっきり、騒ぎを起こしたことへの苦言か何かだと思っていた。
「……恐れ入ります」
「あの状況から、あの料理を編み出すとはな。危機を好機に変えるその手腕、そして何より、兵士たちのあの顔。……わしは、認めざるを得ん」
長老は、ふっと息を吐いた。その息と共に、彼の纏う厳格な空気が、わずかに和らいだように感じられた。
「公爵夫人。あなたの改革が、この街の未来に必要だと、わしは確信した」
私は息を呑んだ。これは、どういうことだ。彼は、ボルコフの息のかかった、旧体制の守護者ではなかったのか。
私の戸惑いを見透かしたように、長老は続けた。
「わしは伝統を重んじる。だが、伝統とは、ただ古きを守ることではない。未来へと繋ぐために、時にその形を変えるべきものだ。そして、何より……わしは、この街の秩序と繁栄を、誰よりも願う者だ」
彼の目が、鋭く光った。
「ボルコフのやり方は、度を越した。彼の強欲は、もはやギルドの利益ではなく、街の秩序そのものを蝕む毒となりつつある」
*
長老は懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。厳重に封蝋がされた、小さな巻物だ。
「わしは、公の立場では動けん。ギルドとの繋がりは、この街の経済にとって、あまりに根深い。下手に動けば、街が混乱するだけだ」
彼はその巻物を、机の上にそっと置いた。
「だが、あなたならできる。あなたは、外部の人間だ。そして、何より、公爵閣下という後ろ盾がある」
私は、机の上の巻物に視線を落とした。これが、彼の本題。
「それは……?」
「ボルコフが、ギルドの資金を不正に流用している証拠……その隠し場所を示した、地図だ」
心臓が、大きく跳ねた。
とどめを刺すための、決定的な証拠。
「なぜ、私に?」
「言うたはずだ。わしは、この街の繁栄を願っている、と。ボルコフの時代は、終わらせねばならん。そして、あなたの作る『温かい未来』に、わしは賭けてみることにした」
長老は、それだけ言うと、私に背を向けた。
「どう使うかは、あなたの自由だ。わしは、何も見ていないし、何も聞いていない。今宵、ここへ来た事実もない」
彼は扉に手をかけ、最後に一度だけ、私を振り返った。
「頼んだぞ、アレスティード公爵夫人」
その瞳には、敵意ではなく、確かな期待の色が宿っていた。
扉が閉まり、部屋には再び、私一人が残された。
*
私はしばらくの間、動けずにいた。
あまりに急な、そしてあまりに重い、密約。
やがて、私はゆっくりと机に近づき、その羊皮紙を手に取った。封蝋を剥がし、中を開く。そこには、ボルコフ商会の地下倉庫を示す、緻密な見取り図が描かれていた。壁の奥に隠された、二重帳簿の場所まで、正確に。
私はその地図を手に、窓辺へと歩み寄った。
窓の外には、静かに眠る領都の街並みが広がっている。一つ一つの灯りの下に、人々の暮らしがある。私が守りたいと願った、温かい食卓がある。
ボルコフの悪意は、氷の刃となって、この街の心臓に突き刺さっている。それを抜かねば、本当の意味での春は訪れない。
私は、手の中にある一枚の羊皮紙を、強く握りしめた。
それは、ただの紙切れではなかった。
この氷の都に、夜明けを告げるための、重い、重い鍵だった。




