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第3話 厨房の主権と規律の壁

 翌朝、私の部屋の扉が、礼儀を欠いた性急なノックに叩かれた。返事をする間もなく扉が開き、血相を変えた家令が飛び込んでくる。

「奥方様!昨夜の振る舞い、一体どういうおつもりですかな!」

 怒りに顔を赤く染め、吐き出すような声で彼は言った。私は読んでいた本から顔を上げ、静かに彼を見返す。

「おはようございます、家令。朝のご挨拶には、少しばかり情熱的すぎるようですが」

「ご冗談を!あなたは閣下を誑かした!あのような素性の知れぬ料理で、公爵家の伝統を汚したのですぞ!」

 誑かした、とは面白い言い草だ。私はゆっくりと本を閉じ、立ち上がった。

「そのお話、ここで続けるおつもりですか?それとも、然るべき方の前で、公的にお話しなさいますか?」

「なっ……」

「私はどちらでも構いません。ですが、家の規律を重んじるあなたであれば、どちらを選ぶべきか、お分かりのはず」

 私の冷静な挑発に、家令はぐっと言葉を詰まらせた。そして、悔しげに「……執事長殿にご報告するまでです!」と言い捨てて、踵を返した。その背中を見送りながら、私は静かに息を吐く。望むところだ。議論の場が、公的なものになるのなら、むしろ好都合だった。



 一時間後、私は執事長であるブランドン様の執務室にいた。

 重厚な執務机を挟み、私と家令が向かい合う。ブランドン様は机の中央で腕を組み、感情の読めない目で私たちを交互に見ていた。

「――というわけで、執事長殿!このままでは、由緒正しきアレスティード公爵家の伝統と規律が、根底から覆されかねません!」

 家令が、一通り溜め込んだ不満をぶちまけるように熱弁を終えた。その主張は一貫している。伝統、礼法、規律。それらが絶対であり、揺るがしてはならないという一点張りだ。

 ブランドン様は、私のほうへ視線を移した。

「奥方。あなたの言い分は?」

「私の主張も、至ってシンプルです」と私は口を開いた。「私はただ、閣下に温かいものを召し上がっていただきたい。それだけです」

「詭弁だ!閣下はこれまで、何の問題もなく過ごしてこられた!」

 家令が横から口を挟む。私は彼を一瞥し、再びブランドン様に向き直った。

「ブランドン様。あなたは、閣下の最も近くでお仕えしている。近年の閣下のご様子について、本当に『何の問題もない』と、胸を張って言えますか?」

 私の言葉に、ブランドン様の眉がわずかに動いた。

「例えば、執務中にこめかみを押さえる回数が増えたり、夜中に何度も目を覚まされている、というようなことは?」

 私の持つ「温導質」が感じ取る魔力の澱みは、必ず表面的な不調として現れているはずだ。その具体的な指摘に、ブランドン様の表情が初めて曇った。家令は「憶測で物を言うな!」と色をなすが、ブランドン様はそれを手で制した。

「……奥方の懸念は、理解できなくもない」

 ブランドン様が、重々しく口を開いた。

「だが、家令の言う通り、伝統を軽々しく変えるわけにはいかん。冷製主義は、この北方の厳しさに耐える精神性を示す、象徴的な礼法でもあるのだ」

「その精神性で、兵士の士気は上がりますか?閣下の執務効率は向上しますか?」

 私は、畳みかけるように言った。そして、とっておきの切り札を切る。

「これは、家の損失です」

「……損失、だと?」

 ブランドン様の目が、初めて鋭い光を帯びた。

「はい。そこで、ご提案があります」



「私に、一週間の試用期間をください」

 私の言葉に、二人の視線が再び集中する。

「この一週間、私が閣下のお食事をすべて担当させていただきます。もし、一週間後に閣下のご様子に何の変化も見られなければ、私は二度と厨房に足を踏み入れません」

 家令が「当然だ!」と息を荒くする。だが、私は続けた。

「その代わり、と言っては何ですが、私はこの一週間で、厨房経費を現状から一割、削減してみせます」

「……何?」

 今度は、ブランドン様が驚きの声を上げた。

「経費を、一割削減だと?馬鹿なことを。食費を切り詰めれば、料理の質が落ちるのは当たり前だ!」

 家令が、ここぞとばかりに反論する。

「いいえ、切り詰めるのではありません。眠っている資産を、価値に変えるのです」

 私は静かに微笑んだ。

「保存庫の在庫管理を最適化し、廃棄寸前の食材を救済する。それだけで、経費は大幅に改善されるはずです。もしよろしければ、今すぐ帳簿を拝見しましょうか?おそらく、三十分もあれば、具体的な改善案を提示できますが」

 前世で叩き込まれた、コスト意識と業務改善スキル。まさか、こんな形で役立つ時が来るとは。私の自信に満ちた言葉に、家令は顔を青くして押し黙る。彼の管理がいかに杜撰か、彼自身が一番よく分かっているのだろう。

 ブランドン様は、組んだ指で顎を撫でながら、深く考え込んでいた。

 伝統か、実利か。

 彼の天秤が、激しく揺れ動いているのが分かった。

「……分かった」

 やがて、彼は重々しく口を開いた。

「この件、私が責任を持って閣下にご判断を仰ごう。結果は、追ってお伝えする」

 それで、その場はお開きとなった。


 自室に戻り、窓の外を眺めていると、やがてブランドン様がやってきた。彼は私の前に立ち、ただ一言、簡潔に告げた。

「閣下から、ご伝言だ」

 私は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「『面白い。やらせてみろ』。……以上だ」

 その言葉を聞いた瞬間、私は固く握りしめていた拳の力が、すっと抜けるのを感じた。

 ブランドン様はそれだけを言うと、一礼して部屋を出て行こうとした。だが、扉の前で足を止め、振り返る。

「……それから、これは私個人の言葉だが」

 彼は、初めて私をまっすぐに見据えた。その瞳には、試すような、それでいて、どこか期待するような光が宿っていた。

「奥方。あなたの言う『損失』、そして『利益』。この一週間で、その両方を、私に証明して見せてもらおう」

 規律という名の、分厚い氷の壁。

 そこに、確かに、小さな亀裂が入った。この一週間で、私はその亀裂を、こじ開けてみせる。温かい料理という、私だけの武器で。

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