第36話 敵の砦に、一匙のスープを
「見事だった」
あの一言が、まだ耳の奥で温かく響いている。
自室に戻り、一人になってからも、私はしばらくの間、窓の外を眺めながらその余韻に浸っていた。アレスティード公爵の、あの感情の読めない瞳。けれど、あの瞬間に私に向けられた眼差しには、確かに何かしらの熱が宿っていたように思う。
けれど、感傷に浸っていられる時間は短い。私の手元には、「三ヶ月以内に、保存食ギルドとの共存計画案を提出せよ」という、重い宿題が残されている。
ギルド長ボルコフ。彼は規約委員会で私に論破され、面目を失った。だが、それで引き下がるような男ではないはずだ。むしろ、追い詰められた獣のように、次は何をしてくるか分からない危険性をはらんでいる。
そんな相手と、正面から「共存」のための話し合いなどできるだろうか。答えは否だ。彼が望むのは共存ではない。私の完全な排除、それだけだ。ならば、私が交渉すべき相手は、ボルコフ本人ではない。
私はペンを取り、一枚の便箋に向かった。宛名は、エレオノーラ・フォン・ヴァインベルク。私の、最も口の悪い、そして最も信頼できる友人へ。
*
数日後、エレオノーラは約束通り、お忍びで屋敷の裏口から私の私室を訪れた。彼女は部屋に入るなり、大げさに溜息をついてみせる。
「まったく、あなたに頼み事をされると、どうしてこう面倒な予感しかしないのかしら。今度は、ギルド長でも暗殺してほしいと?」
「物騒なことをおっしゃらないで、エレオノーラ。お茶でもいかが?体を温める新しいハーブを試してみたの」
軽口を叩きながらも、彼女の目は笑っていない。私が彼女を頼る時が、ただのお茶会のためでないことなど、百も承知なのだ。
温かいハーブティーを一口飲んで、彼女はカップを置いた。
「それで、本題は?『ギルドの内部情報が欲しい』なんて、ずいぶん漠然とした依頼だったけれど」
「ありがとう、協力してくれて。私が知りたいのは、ギルド内部の空気よ。ボルコフの支配は、本当に一枚岩なのかしら。不満を持つ者はいないの?特に、自分の技術に誇りを持ちながらも、彼のやり方に疑問を感じているような……若い職人たちは、どう思っているのかしら」
私の問いに、エレオノーラは面白そうに口の端を上げた。
「なるほど。獅子の頭を狙うのではなく、その胴体を内側から食い破ろうというわけね。あなた、見かけによらず随分とえげつないことを考えるのね。気に入ったわ」
彼女は懐から一枚のメモを取り出し、テーブルの上に滑らせた。
「あなたの依頼を受けて、少しだけ探ってみたわ。私の家の出入りの商人に、それとなく噂を拾わせてね。面白いことが分かったわよ。ギルドに所属する職人の大半は、ボルコフのやり方に不満を持っている。特に、彼が独占的に契約している大手の塩問屋のせいで、材料費は高騰する一方。なのに、買い叩かれるせいで、職人たちの手元にはほとんど金が残らない。生活は苦しいそうよ」
メモには、数人の職人の名前と、彼らがよく利用するという酒場の名前が記されていた。
「特にこの男、ゲスナーというけれど、腕は確かで、若手の中ではリーダー格。でも、一番ボルコフに反発しているせいで、冷遇されているらしいわ。彼あたりが、あなたの最初の突破口になるんじゃないかしら」
私はそのメモを手に取り、エレオノーラに深く頭を下げた。
「ありがとう、エレオノーラ。あなたがいなければ、この一歩は踏み出せなかったわ」
「礼には及ばないわ。だって、退屈な社交界より、あなたの起こす革命を見ている方が、よっぽど面白いもの」
彼女はそう言って悪戯っぽく笑うと、残りのハーブティーを飲み干した。
*
その週の終わり、私はフィーだけを連れ、身分を隠すために質素な旅装を纏い、エレオノーラが教えてくれた酒場へと向かった。領都の中でも、職人たちが多く暮らす、煤けた裏通りにある店だ。
夕暮れ時の店内は、仕事終わりの男たちの汗と酒の匂いで満ちていた。私たちは店の隅の個室を取り、エレオノーラを通じて事前に連絡を取っておいた職人たちが来るのを待った。
やがて、店の者が案内してきたのは、三人の男たちだった。いずれも、まだ若いが、その手は塩と労働でごわごわになり、顔には疲労と不満の色が深く刻まれている。リーダー格だというゲスナーと名乗った男は、特に警戒心が強く、私たちを値踏みするような目で見ていた。
「……あんたが、公爵夫人様、だって?何の用だ。俺たちみたいな貧乏職人に、貴族様が話があるなんて、ろくなことじゃねえ」
彼の言葉には、棘があった。長年、虐げられてきた者特有の、自分を守るための棘だ。
私は慌てない。まずは、彼らの警戒心を解くのが先決だ。
「ええ、私がレティシアです。本日はお集まりいただき、ありがとうございます。ですが、お話の前に、少し冷えてしまったでしょう。まずは、温かいものでもいかがかしら」
私はフィーに合図し、持参した大きな鍋をテーブルの中央に置かせた。蓋を開けると、湯気と共に、ハーブと肉の芳醇な香りが、むわりと狭い個室に立ち込める。
それは、彼らが作る塩漬け肉を、香味野菜とハーブでじっくりと煮込んだ、熱々のスープだった。
「なんだ、こりゃ……?」
男たちの目が、鍋に釘付けになる。私は一人一人の木の椀にスープを注ぎ、黒パンを添えて差し出した。
「どうぞ、召し上がれ。皆さんが作った、素晴らしい塩漬け肉を使わせていただいたのよ」
彼らは戸惑いながらも、その抗いがたい香りに負けたように、恐る恐る匙を口に運んだ。
その瞬間、三人の男たちの顔が、驚きに見開かれた。
「うめえ……」
誰かが、呆然と呟いた。
「なんだこれ……俺たちの肉が、こんなに柔らかくなるのか?それに、塩辛いだけじゃなくて、いろんな味がする……」
ゲスナーもまた、目を丸くして、自分の椀と私の顔を交互に見ている。
彼らは、まるで生まれて初めてご馳走を口にした子供のように、夢中でスープを啜り、パンを浸して食べた。冷え切っていた彼らの体が、内側からじんわりと温まっていくのが、私には分かった。強張っていた肩の力が抜け、険しい表情が少しずつ和らいでいく。
やがて、全員の椀が空になった頃、私は静かに切り出した。
「皆さんの作る保存食は、素晴らしい技術の結晶です。この厳しい冬を乗り越えるための、北の地の知恵そのものよ。けれど、私は思うの。その価値は、ただ塩辛いだけの保存食で終わるべきではない、と」
私は、彼らの目をまっすぐに見つめて続けた。
「あなた方の技術と、私の料理を組み合わせれば、もっと価値のあるものが生まれる。兵士たちの体を温め、領民たちの心を豊かにする、新しい料理が。私は、皆さんと一緒に、それを作りたいの」
私は、公爵家御用達の「温かいスープの素」として、彼らの作る改良版の保存食を正式に買い上げるという、共同開発プロジェクトの計画を打ち明けた。ボルコフを通じて買い叩かれる値段ではなく、その技術と労力に見合った、正当な価格で。
「これは、ボルコフギルド長への反逆ではありません。あなた方の技術に、新しい光を当てるための提案です。古いやり方にしがみついて、未来を閉ざす必要なんてない。私たちは、もっと美味しいものを作れる。そうは、思わない?」
私の言葉に、三人は顔を見合わせている。彼らの瞳に宿っていたのは、もはや警戒心や諦めではなかった。
それは、長い間忘れていた、希望という名の、小さな熱い光だった。
ゲスナーが、ごくりと喉を鳴らし、震える声で尋ねてきた。
「……本当に、俺たちの技術が、そんな風に役に立つのか……?」
私は、力強く頷いた。
「ええ。あなた方の力が必要なの。私一人では、この街の食卓を温かくすることはできないから」
その言葉が、彼らの心の最後の壁を溶かしたようだった。ゲスナーは、ごわごわの手で顔を覆い、そして、ゆっくりと顔を上げた。彼の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。




