第35話 条件付きの勝利宣言
私の最後の問いかけは、重い錨のように議場に沈んだ。
誰も、何も言わない。ただ、委員たちの視線が、私の手元にある報告書と、顔面蒼白のボルコフとの間を行き来している。旧い利権か、未来の利益か。その天秤が、彼らの頭の中でゆっくりと揺れ動いているのが見て取れた。
ボルコフは、もはや怒りの形相ではなかった。そこにあるのは、自分の築き上げた砦が足元から崩れ落ちていくのを目の当たりにした男の、焦りと狼狽の色だった。彼は何かを言い返そうと喘ぐように口を開閉させているが、意味のある言葉は出てこない。私の提示した「共存と発展」という選択肢が、彼から反論の拠り所を全て奪い去ってしまったのだ。
やがて、上座に座る委員長が、重々しく咳払いをした。その一つの音で、張り詰めていた議場の空気がびり、と震える。
「……静粛に」
委員長は、その老獪な瞳で私を一度見やり、次にボルコフを、そして最後に委員たち全員の顔をゆっくりと見渡した。
「双方の意見、しかと承った。これより、委員による審議に入る。しばし、待たれよ」
その言葉を合図に、委員たちは席を立ち、議場の奥にある小部屋へと姿を消していく。残されたのは、私と、ボルコフ、そして数人の傍聴人だけだった。
私は静かに自分の席に戻り、背筋を伸ばして待つ。フィーが心配そうにこちらを見ているのが分かったが、私は穏やかな笑みを返すに留めた。やるべきことは、全てやった。あとは、この氷の都の権力者たちが、どちらの未来を選ぶか、だ。
実家での私は、ただ耐え、我慢し、理不尽な要求を飲み込むことしかできなかった。けれど、今は違う。私にはデータという武器があり、論理という盾がある。そして何より、守りたいと思える温かい場所ができた。その事実が、私を強くしてくれていた。
長い、長い沈黙が続く。時計の針が石壁に反響する音だけが、やけに大きく聞こえた。
*
どれほどの時間が経っただろうか。小部屋の扉が開き、委員たちが再び議場へと戻ってきた。彼らの表情は一様に硬く、裁定がどちらに転んだのかを読み取ることはできない。
委員長が席に着き、議場全体を見渡した。彼の視線が、私の上で一瞬だけ、ぴたりと止まる。
「審議は、尽くされた。これより、規約委員会としての裁定を下す」
ごくり、と誰かが唾を飲み込む音がした。ボルコフが、祈るように手を固く握りしめている。
委員長は、一枚の羊皮紙を手に取り、厳かに読み上げ始めた。
「まず、アレスティード公爵夫人レティシア殿より提出された各種報告書について。その内容には客観的な事実に基づいた説得力があり、公爵家の運営、並びに領軍の強化に明確な利益をもたらしていることを、当委員会は認めるものである」
その瞬間、ボルコフの肩が大きく揺れた。私の心臓も、とくん、と一つ跳ねる。
委員長は続ける。
「よって、公爵家、および領軍施設内における、公爵夫人の監督下での温かい食事の提供を、『特例』として正式に認可する」
勝った。
心の中で、私は小さく拳を握った。ボルコフの最大の目的であった「活動の全面禁止」は、完全に阻止されたのだ。傍聴席のダニエル殿が、ブランドンと顔を見合わせ、安堵の息を漏らすのが見えた。
しかし、裁定はまだ終わっていなかった。
「――ただし」
委員長のその一言に、私は再び意識を集中させる。
「ただし、その活動を市井へ拡大することについては、既存の商業秩序、とりわけ保存食ギルドへの影響を考慮し、即時の許可はできないものとする」
ボルコフの顔に、わずかに安堵の色が戻った。やはり、単純な勝利では終わらない。これは政治の場なのだ。
「公爵夫人には、本裁定より三ヶ月以内に、保存食ギルドとの具体的な『共存計画案』を策定し、当委員会へ提出することを命ずる。その計画案が、双方の利益に資すると判断された場合に限り、段階的な市井への拡大を許可するものとする。以上が、本委員会の裁定である」
羊皮紙が、テーブルの上に置かれた。
条件付きの勝利。それが、私の得た結果だった。
敵の息の根を完全に止めることはできなかった。ボルコフは時間稼ぎに成功し、私には「共存計画の策定」という、新たな重い課題が課せられた。
だが、それでも。
私はゆっくりと立ち上がり、委員長に向かって深く、深く一礼した。
「裁定、謹んでお受けいたします。必ずや、皆様にご納得いただける計画案を提出することをお約束します」
私の声に、揺らぎはなかった。
これは、次なる戦いの始まりを告げるゴングだ。そして、その戦いのルールを決める主導権は、今、確かに私の手の中にある。
*
議場を後にすると、待ち構えていたブランドンとダニエル殿が駆け寄ってきた。
「奥方様、見事な弁論でございました!」
「いやはや、圧巻だった。まるで熟練の政治家のようでしたぞ」
二人の手放しの賞賛に、私は少し照れながらも礼を言った。
「ありがとうございます。ですが、まだ道半ばです。お二人の力なくしては、ここまでは来られませんでした。これからも、お力添えをお願いいたします」
私たちが言葉を交わしながら長い廊下を歩いていると、前方の柱の影から、すっと一人の人影が現れた。
アレスティード公爵、その人だった。
彼はいつからそこにいたのだろう。ブランドンとダニエル殿が、はっとしたように姿勢を正し、恭しく一礼する。
公爵は、彼らには一瞥もくれず、まっすぐに私の元へと歩み寄ってきた。その感情の読めない瞳が、じっと私を捉えている。契約結婚の夫ではあるが、彼の前に立つと、いつも少しだけ緊張する。
彼は何も言わない。ただ、私を見ている。その沈黙が、まるで今日の私の全てを値踏みしているようで、私はごくりと喉を鳴らした。
やがて、彼はほんのわずかに口を開き、そして、静かに、短く、こう言った。
「見事だった」
その一言だけだった。
だが、そのたった一言が、どんな賛辞よりも深く、私の心に染み渡った。
議場の冷気で強張っていた私の心が、その声の持つ不思議な熱で、ゆっくりと解けていくのを感じた。




