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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第33話 ペンは剣よりも強く

 アレスティード公爵の書斎を出た私の足は、まっすぐに自室へと向かっていた。重厚な扉を背にした瞬間、張り詰めていた糸がわずかに緩み、私はそっと息を吐く。彼の静かな瞳に宿っていた信頼の色が、まぶたの裏に焼き付いている。

 行けるか、と彼は言った。

 行ける、と私は答えた。

 もう後戻りはできない。いいえ、するつもりもない。

 部屋に戻ると、すでに執事長のブランドンが待っていた。彼の前には、分厚い羊皮紙の束がいくつも置かれている。仕事が早い、という言葉では足りないほどの迅速さだった。

 「奥方。お求めの資料です。過去五年分の規約委員会の議事録、および現委員の経歴と、それぞれのギルドとの関係性をまとめたものです」

 「ありがとうございます、ブランドン。本当に助かります」

 私は早速、一番上の資料を手に取った。インクの匂いが、これから始まる戦いの狼煙のように感じられる。委員会まで、残された時間は一週間。無駄にできる時間など一秒もなかった。

 「敵を知り、己を知れば、百戦殆うからず、でしたかしら」

 前世で聞きかじった言葉を呟くと、ブランドンがわずかに目を見開いた。

 「東方の古い兵法書にある言葉ですね。奥方は博識でいらっしゃる」

 「ただの受け売りですわ。まずは、敵の分析から始めましょう」

 私たちは暖炉の前のテーブルに資料を広げ、頭を突き合わせた。議事録を読み解くと、ボルコフギルド長がいかに巧みに議論を誘導し、自らの利益となる決定を積み重ねてきたかが手に取るようにわかる。彼は、伝統や秩序といった耳障りの良い言葉を盾に、反対意見を封じ込める達人だった。

 「感情論では勝てません。彼が最も嫌うのは、おそらく、覆すことのできない『事実』でしょう」

 「事実、ですか」

 「ええ。数字や、具体的な変化といった、誰もが認めざるを得ない客観的なデータです。私たちの武器は、そこにしかありません」

 私は立ち上がり、ブランドンに向き直った。「作戦会議を開きます。私と、あなた。それから侍女長のフィーと、軍医のダニエル殿にも声をかけてください。この戦いは、私一人では勝てません」

 ブランドンは私の意図を即座に理解し、力強く頷いた。

 「承知いたしました。ただちに人選を」

 「それから、エレオノーラ様にも使いを出して。彼女には、委員会のメンバーの個人的な評判や、最近の金の流れなど、表には出てこない情報を探っていただきたい、と」

 外部からの情報収集役として、彼女以上の適任はいない。あの冷笑的な瞳は、人の嘘や欺瞞を見抜くことに長けているはずだ。

 私の指示に、ブランドンは一瞬驚いたように眉を上げたが、すぐに納得の表情を浮かべた。

 「……完璧な布陣ですな」

 その言葉に、私は静かに微笑んだ。氷の都の片隅で、小さな反撃チームが結成された瞬間だった。



 翌日、私の執務室は、さながら作戦司令室の様相を呈していた。

 集まったのは、私、ブランドン、フィー、そして急な呼び出しにも関わらず駆けつけてくれた軍医のダニエル殿。彼はがっしりとした体躯の中年男性で、その目には現実を見据える実直な光が宿っていた。

 「これはまた、面白い顔ぶれだな。公爵夫人、俺に何の用だ?専門は人体の修理だが、政治の修理は専門外だぞ」

 ダニエル殿のぶっきらぼうな物言いに、フィーが少し身を固くする。私は構わず、単刀直入に切り出した。

 「ダニエル殿、先日夜会で証言していただいたデータを、さらに詳細かつ、誰の目にも明らかなグラフや表にまとめ直し、規約委員会の委員たちを黙らせるための公式報告書として完成させたいのです。ご協力いただけますか?」

 私の言葉に、彼は興味深そうに顎髭を撫でた。

 「なるほど。口頭での証言だけでは、あの石頭どもには響かんということか。面白い。どうせなら、連中の度肝を抜くような、完璧な報告書を作ってやろうじゃないか」

 「もちろん、そのための準備をこれから始めます」

 私はテーブルに広げた大きな紙に、インクをつけたペンで書き込んでいく。

 「私たちの報告書は、三つの柱で構成します。一つ、経済。二つ、健康。そして三つ、士気。それぞれの分野で、温かい食事がもたらした具体的な改善点を、誰の目にも明らかな形で提示するのです」

 私はそれぞれの担当を指名した。

 「経済に関するデータは、私とブランドンで。屋敷と兵舎の帳簿を元に、経費と廃棄食材の削減実績をまとめます」

 「健康については、ダニエル殿にお願いします。兵士たちの過去のカルテや体力測定記録から、病欠率の低下や体調の変化を分析してください」

 「そして士気。これはフィー、あなたにお願いしたい。使用人や兵士たちに、匿名のアンケートを取り、彼らの生の声を集めてほしいのです。食事を変えたことで、仕事への意欲や職場環境にどんな変化があったか、を」

 私の提案に、三人はそれぞれの顔を見合わせ、そして同時に頷いた。目的が明確になったことで、彼らの目にも闘志の火が灯る。

 「よし、乗った。どうせなら、あの頭の固い委員会の連中の度肝を抜くような、完璧な報告書を作ってやろうじゃないか」

 ダニエル殿が、ニヤリと笑った。私たちのチームが、本当の意味で一つになった瞬間だった。



 それからの五日間、私たちは文字通り不眠不休で作業に没頭した。

 私の執務室は、羊皮紙とインクの匂いで満たされている。

 経済報告書の作成は、私の独壇場だった。前世で、毎日のように睨めっこしていた表計算ソフトの記憶を呼び覚ます。方眼紙を何枚も貼り合わせ、横軸に月、縦軸に経費や廃棄量を設定し、一本一本、丁寧に線を引いてグラフを作成していく。

 「奥方、これは…?」

 私の作業を見ていたブランドンが、不思議そうに尋ねる。

 「グラフ、というものです。数字の羅列よりも、こうして絵にすることで、変化が一目でわかるでしょう?」

 右肩下がりに減少していく経費の線と、それに反比例して上昇していく食材の利用率。それは、私の改革の正しさを何よりも雄弁に物語っていた。

 「素晴らしい…。これならば、どんな人間でも理解せざるを得ない」

 ブランドンは感嘆の声を漏らし、帳簿の数字を読み上げる作業に、より一層の熱を込めた。

 ダニエル殿が持ち込んできた資料は、まさに宝の山だった。彼は領軍の全ての兵士の健康記録を保管しており、そこには私の炊き出しが始まってからの、目覚ましい変化が記録されていた。

 「見ろ、夫人。風邪による病欠率が、前年同月比で四割も減少している。軽度の凍傷を訴える者も激減だ。これは、まごうことなき医学的な事実だ」

 私たちはそのデータを分類し、これもまた分かりやすい表にまとめていく。

 一方、フィーが集めてきた声は、私たちの心を温かくした。

 『食事が楽しみで、仕事に来るのが苦じゃなくなった』

 『体が温まると、心まで温かくなる気がする』

 『奥様は、俺たちのことを見てくれている』

 匿名の羊皮紙に綴られた、飾り気のない、しかし真心のこもった言葉たち。私はその一つ一つを報告書に引用しながら、胸が熱くなるのを感じていた。

 作業は深夜に及ぶこともあった。疲労で目がかすみ、ペンを握る指がこわばる。そんな時、フィーがそっと、湯気の立つスープとパンを差し入れてくれるのだ。

 「皆様、少し休憩なさってください。新作の豆のスープです」

 その温かいスープが、疲れた体に染み渡っていく。ブランドンも、ダニエル殿も、無言でスープを啜り、ほっと一息つく。

 この部屋に流れる、穏やかで、温かい空気。

 そうだ。私が守りたいのは、これなのだ。ただ自分の自由や平穏だけではない。こうして信頼できる仲間たちと、一つの目的に向かって力を合わせる、この温かい繋がりそのものを、私は守りたいのだ。

 ボルコフギルド長、あなたには決して、これを壊させはしない。



 規約委員会の前夜。

 私たちの前には、数冊の分厚いファイルが完成していた。

 表紙には、それぞれ『経済改善に関する報告書』『兵士の健康増進に関する医学的考察』『組織士気向上に関する実態調査』と記されている。

 インクの匂いがまだ真新しいそれを、私はそっと指で撫でた。

 一冊一冊が、ずしりと重い。それは、ただの紙の重さではなかった。この数日間、私たちが注ぎ込んできた時間と、情熱と、そして揺るぎない事実の重みだった。

 剣を抜いて戦うことは、私にはできない。けれど、私にはペンがある。知識がある。そして、共に戦ってくれる仲間がいる。

 私は完成した報告書を胸に抱き、窓の外に広がる夜の都を見下ろした。

 明日、あの氷の議場で、私はこの静かな武器を振るう。

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医者からの見地で、温かい料理の兵士達の健康状態の変化を軍医のダニエルにたのんで、その結果を報告してくれてますが、以前夜会で証言してくれた内容を、さも今初めて発見して驚いたように報告しているところに、と…
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