第32話 規約委員会からの召喚状
帳簿から浮かび上がった黒い影の正体は、私の想像以上に根深く、そして悪質だった。
夜が明けるのを待って、私は分析結果をまとめた羊皮紙を手に、執事長のブランドンの元を訪れた。彼は私の報告書に静かに目を通し、その表情をみるみるうちに硬くしていく。
「……信じ難い。家令が、長年にわたりボルコフギルド長と共謀し、家の財産を蝕んでいたとは」
ブランドンの声には、裏切られたことへの怒りと、家の財産を守りきれなかったことへの自責の念が滲んでいた。
「彼を罰するのは当然です。ですが、問題はそこではありません」と私は続けた。「家令はただの駒。大元であるボルコフギルド長を叩かなければ、また同じことが繰り返されるだけです」
「しかし、相手は領都のギルド長。公爵家の帳簿だけでは、彼を法的に追及するのは難しいでしょう。彼が家令に送金した記録はありますが、それを『不正の報酬』だと証明する物証がない」
ブランドンの指摘は的確だった。ボルコフは、自分の手が汚れないように、巧妙に立ち回っている。
「ええ。だからこそ、別の角度から攻める必要があります。彼の力の源泉は、保存食ギルドがもたらす莫大な利益と、それによって得た政治的な影響力。ならば、その土台そのものを揺るがせばいい」
私の脳裏には、すでに次の一手が描かれつつあった。保存食に頼り切ったこの寒冷地の食文化に、新しい選択肢を提示する。私の温かい料理は、ただ美味しいだけではない。旧い利権構造を破壊する、静かな武器にもなり得るのだ。
私とブランドンが、今後の具体的な戦略について議論を始めた、まさにその時だった。
執務室の扉が、慌ただしくノックされた。
「失礼いたします!執事長、至急お耳に入れたいことが!」
入ってきたのは、若い執事見習いの少年だった。その手には、一枚の羊皮紙が握られている。ただの書状ではない。領都の紋章が刻まれた、重々しい蝋で封をされた、公式文書だ。
「どうした、騒がしい」
ブランドンが咎めるように言うと、少年は息を切らしながら答えた。
「先ほど、領都の規約委員会より、使者が参りました。アレスティード公爵閣下、並びに奥様宛の、正式な召喚状でございます」
その言葉に、私とブランドンの間に緊張が走った。
規約委員会。その名前を聞いただけで、背筋に冷たいものが走る。
敵は、私たちが動き出すのを待ってはくれなかった。それどころか、完璧なタイミングで、先手を打ってきたのだ。
*
ブランドンが受け取った召喚状を、ゆっくりと開く。
上質な羊皮紙に、流麗だが威圧的なインクの文字が並んでいた。
「……議題は、『公爵夫人の食文化改革が、既存の商業秩序に与える影響、並びに領民の伝統的生活様式を乱す可能性についての審議』、か。ふざけたことを」
ブランドンが、吐き捨てるように呟いた。
「規約委員会とは、一体何なのですか?」
私の問いに、彼は険しい顔のまま答えた。
「領都の自治運営に関する重要事項を決定する、最高意思決定機関の一つです。メンバーは、市参事会の長老、領軍の代表、神殿の代表、そして……各ギルドの長で構成されています」
各ギルドの長。その言葉が、重く私の胸にのしかかる。
「まさか…」
「ええ。現在の規約委員会において、最も強い発言力を持つのは、他ならぬボルコフギルド長、その人です」
全てのピースが、最悪の形で組み合わさった。
ボルコフは、私を自分の土俵へと引きずり出したのだ。社交界のような曖昧な場所ではない。領都の規律と法の名の下に、私を公的な場で断罪し、その活動の全てを社会的に抹殺する。それが彼の狙いだった。
「なんという卑劣な…!これは審議などではない。初めから結論ありきの、魔女裁判も同然です!」
ブランドンが怒りに拳を握りしめる。
私は、指先が冷えていくのを感じていた。前世で経験した、理不尽な会議の記憶が蘇る。上司に都合の悪いデータを突きつけられ、大勢の前で吊し上げられた、あの日の屈辱。また、同じことが繰り返されるのか。
「いい子」でいることをやめたはずなのに、心の奥底で、またあの頃の無力な自分が顔を出す。
「奥方、ご心配には及びません。この召喚は閣下のお名前で拒否することも…」
「いいえ」
私は、ブランドンの言葉を遮った。
ここで逃げれば、私は負けを認めたことになる。ボルコフの思う壺だ。
「この件は、私が閣下にご報告します。ブランドンは、委員会の過去の議事録と、各委員の経歴を、可能な限り集めてください。敵を知らなければ、戦うことはできません」
私の声が、自分でも驚くほど冷静だったことに、少しだけ安堵した。恐怖に震えている場合ではない。やるべきことは、山ほどある。
ブランドンは私の覚悟を察したのか、一瞬の躊躇の後、力強く頷いた。
「…承知いたしました。我がアレスティード家の情報網を、総力を挙げて駆使いたします」
私は彼に一礼し、召喚状を手に執務室を出た。
向かう先は一つしかない。この家の主、アレスティード公爵の書斎だ。
*
重厚なマホガニーの扉をノックすると、中から「入れ」という低い声がした。
書斎の中は、いつも通り静かで、暖炉の火が穏やかに燃えている。アレスティード公爵は、山積みの書類から顔を上げ、私を認めてわずかに眉を動かした。
「どうした」
「閣下にご報告したいことがございます」
私は彼の机の前まで進み、ことの経緯を簡潔に説明した。家令の不正、黒幕であるボルコフギルド長の存在、そして、先ほど届いた規約委員会からの召喚状。
彼は私の話を黙って聞いていた。その表情からは、何の感情も読み取れない。驚きも、怒りも、失望も。ただ、静かな湖面のように、私の言葉を受け止めているだけだった。
私は説明を終え、召喚状を彼の前に差し出した。
彼はそれを受け取ると、ゆっくりと内容に目を通す。インクの文字を追う、彼の長い睫毛が、暖炉の光を受けて影を落としていた。
長い、沈黙が流れる。
書類から顔を上げた彼は、その感情の読めない瞳で、私をまっすぐに見つめた。
何を言われるのだろう。私の軽率な行動が、公爵家に迷惑をかけたと、叱責されるのだろうか。それとも、これはお前の問題だと、突き放されるのだろうか。
心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。
やがて、彼の薄い唇が、わずかに開いた。
「……行けるか」
たった、一言。
それは、私の能力を疑う問いではなかった。私の行動を非難する言葉でもなかった。
その短い問いかけには、もっと別の響きがあった。
お前はどうしたいのだ、と。お前が戦うと決めるなら、俺はそれを止めない、と。
彼の静かな瞳の奥に、揺るぎない信頼の色が宿っているのを、私は確かに見た。
その瞬間、私の胸の内に渦巻いていた恐怖と不安が、すうっと霧のように晴れていく。
そうだ。私はもう、一人ではない。
この人は、私の行動を、その結果を、全て受け止める覚悟で、私に問いかけてくれている。
私は背筋を伸ばし、彼の瞳をまっすぐに見返した。
「はい、閣下。これは、私が始めた戦いですから」
私の答えに、彼は満足したように、ほんのわずかに頷いた。
「そうか」
彼はそれだけ言うと、召喚状を私の方へ滑らせるようにして返した。それは、この件の采配を、全て私に委ねるという、無言の意思表示だった。
私はその羊皮紙を、両手でしっかりと受け取る。先ほどまであれほど冷たく感じられた紙が、今は不思議と、温かく感じられた。
これは試練だ。しかし、同時にまたとない好機でもある。
私の改革が、一個人の趣味や気まぐれなどではなく、この領地全体に利益をもたらす、価値ある「政策」なのだと、公の場で証明する絶好の機会なのだ。
私は召喚状を手に、静かに闘志を燃やす。
ボルコフギルド長。あなたの用意した舞台、謹んで、上がらせていただきます。




