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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第31話 帳簿が語る黒い影

 ヴァインベルク伯爵家での夜会から数日が過ぎ、屋敷には嵐の後のような、穏やかな静けさが戻っていた。

 あれ以来、私を「伝統の破壊者」と公然と非難する声は聞こえなくなり、代わりに侍女たちの間では「体を温めるハーブティーの淹れ方」が流行り始めている。厨房では、古参料理人のゲルトさんが、私の考案した温かいパイのレシピに、彼なりの改良を加えてみたと得意げに披露してくれた。

 小さな変化が、水面に広がる波紋のように、この大きな屋敷の隅々にまで浸透していく。その確かな手応えに、私はようやく安堵の息をつくことができた。

 「奥様、こちらのカボチャのポタージュ、隠し味に少しだけシナモンを加えてみたのですが、いかがでしょう?」

 厨房の片隅で、フィーが小さなカップを差し出してくる。湯気の立つ黄金色のスープを一口含むと、カボチャの優しい甘みの後から、ほんのりと温かいスパイスの香りが追いかけてきた。

 「とてもいいわ、フィー。冷えた体に染み渡るようね。夜警の方々の差し入れにぴったりかもしれない」

 「本当ですか!よかった!」

 フィーがぱっと顔を輝かせた、その時だった。厨房の入り口に、影が差す。

 そこに立っていたのは、執事長のブランドンだった。彼はいつもと変わらぬ無表情を顔に貼り付けていたが、その手にした分厚い革表紙のファイルと、わずかに険しい眉間の皺が、ただ事ではない雰囲気を醸し出していた。

 「奥方。少々、お時間をいただけますでしょうか」

 その声の硬質さに、フィーと私の間の和やかな空気は霧散した。私は頷き、カップをテーブルに置く。どうやら、本当の嵐は、まだこれかららしい。



 私の執務室のテーブルに、ずしりと重い音を立てて数冊の帳簿が置かれた。古びた羊皮紙とインクの匂いが、部屋に満ちる。

 「これは…?」

 「先日、職務を解かれた家令が管理していた、過去五年分の厨房関連の会計帳簿です」

 ブランドンは、指先で几帳面に帳簿の背を撫でながら言った。

 「家令の解任に伴い、私が彼の業務を引き継ぎ、財産の監査を行いました。その結果、いくつか看過できない不自然な金の流れが発覚したのです」

 彼の言葉は淡々としていたが、その奥には家の財産を預かる者としての、静かな怒りが込められていた。

 「私は家の運営と規律の専門家ですが、数字の裏を読むような細かな分析は得意ではない。奥方は、以前の予算会議で見事な計数能力をお示しになられた。僭越ながら、奥方のお力をお借りしたいのです」

 それは、依頼であり、査定であり、そして何より、私をこの家の運営を担うパートナーとして認めるという、彼からの信頼の証だった。

 「分かりました。お引き受けします」

 私は頷き、一番上の帳簿を手に取った。

 「ただし、一つだけ。この件は、閣下にはまだご報告なさらないでください。確たる証拠を掴むまでは、余計なご心労をおかけしたくありません」

 ブランドンはわずかに目を見張り、そして深く頷いた。

 「承知いたしました。全て、奥方にお任せいたします」

 彼が退室し、一人になった部屋で、私は帳簿の最初のページを開いた。そこには、几帳面だがどこか冷たい筆跡で、食材や備品の購入記録がびっしりと書き連ねてあった。

 前世、会社員だった頃の記憶が蘇る。月末になると、山のような領収書と格闘し、一円単位の誤差も見逃さない上司に、何度も書類を突き返された日々。あの頃の苦労が、こんな形で役に立つ日が来るとは、皮肉なものだ。

 私はペンと新しい羊皮紙を用意し、数字との孤独な戦いを始めた。



 分析は、想像以上に骨の折れる作業だった。

 暖炉の火がぱちぱちと音を立て、窓の外はとっぷりと暮れている。私は蝋燭の灯りを頼りに、ひたすら数字を追いかけていた。

 最初の数時間は、これといった異常は見つからなかった。だが、二年目の帳簿に差し掛かったあたりから、小さな違和感が顔を出し始める。

 塩漬け肉、干し豆、小麦粉。特定の保存食の仕入れ値だけが、市場価格の変動とは無関係に、常に二割ほど高く計上されている。仕入れ先は、どれも同じ「ボルコフ商会」という名だった。

 さらに奇妙なのは、鍋や調理器具といった消耗品の購入記録だ。まるで計画的に壊しているかのように、三ヶ月に一度、必ず同じ品が同じ数だけ購入されている。公爵家の厨房は大きいが、これほどの頻度で調理器具を新調するのは、どう考えても異常だった。

 「奥様、少しお休みになってはいかがですか。目が赤くなっていますわ」

 背後から、心配そうなフィーの声がした。彼女が、温かいミルクと焼き菓子を乗せた盆を、そっとテーブルの端に置いてくれる。

 「ありがとう、フィー。もう少しだけ、頑張ってみるわ」

 ミルクで乾いた喉を潤し、私は再び帳簿に向き直った。家令は、なぜこんな杜撰な不正に手を染めたのか。いや、これは杜撰なのではない。むしろ、あまりに定期的で、機械的だ。まるで、誰かに命じられた手順を、ただ忠実にこなしているかのように。

 もし、家令が誰かから不正の指示を受けていたとしたら?

 その考えが頭をよぎった瞬間、私は息を呑んだ。私はこれまで、家令個人の金の流れを追っていなかった。ブランドンに頼み、家令の個人口座の取引記録を取り寄せてもらう。

 数時間後、届けられた記録と厨房の帳簿を照らし合わせた時、全ての点が、一本の黒い線で繋がった。

 ボルコフ商会から、公爵家に水増しされた請求書が届く。その支払いが完了した数日後、必ず、家令の個人口座に、水増し分の約半額にあたる金額が振り込まれている。

 心臓が、嫌な音を立てて脈打った。

 家令は、主犯ではない。彼はただの駒。公爵家の財産を横領するための、ただの中継役に過ぎなかったのだ。

 では、黒幕は誰か。

 答えは、もう目の前にあった。ボルコフ商会。その名は、領都で最も大きな力を持つ、保存食ギルドの長と同じ名前だった。

 社交界で私を執拗に攻撃してきた、オルブライト子爵夫人の派閥。その最大の支援者が、ボルコフギルド長だとエレオノーラが言っていた。

 冷製主義という伝統を守るためではなかった。私の改革が、自分たちの不正な利益の源泉を脅かすから。だから、彼らはあれほど必死に、私を排除しようとしたのだ。

 思想や文化の対立などという、生易しいものではない。これは、この家の財産と、私の食卓を狙った、明確な経済攻撃だった。



 私はペンを置き、ゆっくりと立ち上がった。

 窓の外には、静まり返った領都の夜景が広がっている。あの街のどこかに、全ての元凶がいる。

 安堵感は、もうどこにもなかった。代わりに、腹の底から、冷たくて硬質な怒りが湧き上がってくるのを感じる。

 私はテーブルに戻り、帳簿の上に広げた羊皮紙を指でなぞった。そこには、金の流れを示す矢印と、黒幕の名がはっきりと記されている。数字が描き出した、敵の姿だ。

 私はその名前を、静かに声に出して呟いた。

 「ボルコフ…」

 戦いの場所は、もう華やかな社交界ではない。もっと泥臭くて、冷たい数字が支配する市場だ。

 私は窓辺に立ち、夜の闇に包まれた街を見据える。

 いいでしょう。その戦い、受けて立ちます。

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