第30話 喝采は、静かに始まった
その月の社交界で最も格式高いとされる、ヴァインベルク伯爵家主催の夜会。
私がアレスティード公爵と共に、大理石のホールに足を踏み入れた瞬間、それまで満ちていた喧騒が、さざ波のように引いていくのを感じた。無数の視線が、探るように、あるいは品定めするように、私たちに突き刺さる。
今日の私は、ただの「お飾りの公爵夫人」ではない。社交界の伝統に、温かい料理という名の石を投げ込んだ、異端者だ。
「ずいぶんと注目されているじゃないか、レティシア」
隣を歩く公爵が、誰にも聞こえないほどの低い声で呟いた。彼の腕に添えた私の手は、上質な黒の手袋に包まれている。その布越しにさえ、彼の落ち着いた体温が伝わってきて、私の高鳴る心臓を少しだけ鎮めてくれた。
「光栄ですわ、閣下。おかげさまで、退屈せずに済みそうです」
私がそう返すと、彼の唇の端が、ほんの一瞬だけ上がったように見えた。
ホールの中央では、オルブライト子爵夫人が、数人の取り巻きを従えてこちらを睨みつけていた。彼女の周りだけ、空気が凍てついているようだ。彼女こそが、旧弊な伝統の番人であり、私が乗り越えるべき最後の、そして最大の壁だった。
「ごきげんよう、公爵夫人」
ふわりと花の香りがして、エレオノーラが私たちの前に現れた。今日の彼女は、銀糸の刺繍が施された夜空色のドレスを纏い、まるで物語から抜け出してきた妖精のようだ。
「ずいぶんと物々しい歓迎ね。あの氷の女王様、今日はあなたを公開処刑にするつもりのようよ。せいぜい楽しませてちょうだい」
その皮肉めいた言葉は、彼女なりのエールだった。私は彼女に目配せで応え、背筋を伸ばす。今夜、この場所で、全てに決着をつける。
*
音楽が一段落し、人々がグラスを片手に談笑に興じ始めた、その時だった。
甲高い声が、ホールの空気を切り裂いた。
「皆様、少々よろしいかしら!」
オルブライト子爵夫人だった。彼女はホールの中心に進み出て、全ての注目を一身に集めている。その手にした扇は、緊張のためか小刻みに震えていた。
「今宵、この由緒ある場におきまして、皆様に問いたいことがございます。我々が長年守り続けてきた、この北方の気高き伝統と秩序が、今、危機に瀕しているのです!」
芝居がかった口調に、会場がざわめく。彼女の指先が、扇の骨も砕けんばかりの勢いで、まっすぐに私を指し示した。
「アレスティード公爵夫人!あなた様のことですわ!」
全ての視線が、再び私に集中する。逃げ場のない、円形闘技場の真ん中に立たされたような気分だった。
「あなたは、南方の軟弱で野蛮な習慣を持ち込み、我々の食文化という名の礼法を破壊しようとなさっている!その行いが、どれほど社会に混乱を招いているか、お分かりですの!?」
彼女の言葉は、もはや私個人への非難ではなかった。伝統を重んじる全ての貴族たちの不安を代弁し、私を「秩序を乱す共通の敵」に仕立て上げようという、巧妙な扇動だった。
「その責め、いかにしてお取りになるおつもりか!さあ、この場でお答えなさい!」
断罪の言葉が、シャンデリアの光を浴びてホールに響き渡る。隣に立つ公爵は、表情一つ変えずに前を見据えている。彼は私を信じ、この場を私に委ねてくれていた。
私はゆっくりと一礼し、静かに一歩前へ出た。
*
「オルブライト子爵夫人。ご指摘、ありがとうございます」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。恐怖はない。あるのは、この日のために準備を重ねてきたという、静かな覚悟だけだ。
「ですが、その『伝統』について、皆様と共有したい事実がございます」
私は集まった人々を見渡し、語り始めた。それは、公爵家の書庫で見つけた、三百年前の古い日誌の物語だった。
「皆様が気高いとおっしゃるその『冷製主義』は、今から三百年前、この地を襲った大疫病への恐怖から生まれた、一種の願掛けであったことをご存知でしょうか。当時の未熟な医学が、『火を使った料理は病の瘴気を活性化させる』と信じ込んだことから始まった、悲しい迷信だったのです」
会場が、大きくどよめいた。信じられない、という顔で互いに顔を見合わせる者。眉をひそめ、私の言葉の真偽を測ろうとする者。
「伝統とは、先人たちが築き上げた尊いものです。しかし、その始まりが、もしも恐怖と誤解であったとしたら?私たちは、三百年間も、根拠のない呪いに縛られ続けてきたことにはなりませんでしょうか」
「こ、こじつけですわ!歴史を都合よく解釈した、詭弁に過ぎません!」
子爵夫人が、顔を真っ赤にして叫ぶ。だが、その声には先程までの威厳はなく、焦りの色が滲んでいた。
私が次の言葉を紡ごうとした、その時だった。
「失礼。医学的な見地から、一言よろしいかな」
穏やかだが、芯の通った声が響いた。人垣が割れ、その間から進み出たのは、ダニエル・ファーメント軍医だった。彼は今夜、ヴァインベルク伯爵家の主治医として、正式に招待されていたのだ。
彼は私に一礼し、そして満座に向き直った。
「私はアレスティード公爵領の軍医、ダニエル・ファーメントと申します。伝統や礼法は私の専門外ですが、人の健康については、専門家として断言できます」
彼は一呼吸置き、力強い声で言った。
「公爵夫人の提唱される温かい食事は、我々北方の民の健康を、著しく向上させるものです。体温の上昇は魔力循環を促し、免疫力を高める。これは、数多の兵士たちの健康データが証明している、紛れもない事実です」
歴史という過去からの証言に、科学という現代からの証拠が重なった。
オルブライト子爵夫人の顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼女の武器であった「伝統」と「常識」は、今や砂上の楼閣のように崩れ去ろうとしていた。
*
ホールは、水を打ったように静まり返っていた。
誰もが言葉を失い、この劇的な逆転劇の結末を固唾をのんで見守っている。シャンデリアのクリスタルが揺れる、かすかな音だけが聞こえていた。
その沈黙を破ったのは、一つの乾いた拍手の音だった。
パチリ。
音のした方を見ると、ホールの隅で、地味な装いの男爵が一人、こちらに向かって手を叩いていた。確か、病弱な息子さんのことで心を痛めていると、エレオノーラから聞いていた人物だ。彼は誰の顔色も窺わず、ただ真っ直ぐに私を見て、もう一度、手を叩いた。
パチリ。
その音が、まるで合図だったかのように。
別の場所から、また一つ、拍手が起こった。持病を抱える夫を支える、年配の夫人だった。
パチリ、パチリ。
一人、また一人と、拍手の輪が広がっていく。
それは、熱狂的な喝采ではなかった。むしろ、ためらいがちで、静かで、しかし一人一人の確かな意志が込められた音の連なりだった。家族の健康を願う心。自身の体の声に耳を傾ける勇気。古い常識への、ささやかな反逆。
その音の波が、オルブライト子爵夫人を打ちのめし、旧弊な伝統の終わりを告げていた。
私は、胸に込み上げてくる熱いものを感じながら、その光景をただ見つめていた。
ふと、隣に立つ公爵の気配を感じる。彼を見ると、感情の読めない瞳が、わずかに和らいでいるように見えた。
そして、彼の唇の端が、ほんの少しだけ、確かに持ち上がっていた。




