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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第29話 切り崩される氷の壁

 ダニエル軍医が約束通り、公式の見解書を届けてくれたのは三日後のことだった。

 アレスティード公爵家の紋章が入った封筒ではなく、軍医個人の質素な手紙として、それは私の元へ届けられた。公の場でこれを突きつけるのは、最後の切り札。その前に、水面下でやるべきことがあった。

 羊皮紙に綴られた文字は、専門的で、冷静で、しかし揺るぎない力に満ちていた。

 『……体温の維持は生命活動の根幹であり、温かい食事による体内温度の上昇は、魔力循環を含む新陳代謝を活性化させる。これは、特に寒冷地に住まう我々にとって、疾病予防と健康維持に極めて重要な要素であると結論せざるを得ない。伝統的に食されてきた冷製料理は、栄養価は認められるものの、その温度が身体に与える負荷は、これまで看過されてきた重大な問題点である……』

 三百年の呪いを解くための、科学という名の鍵。私はその手紙を丁寧に折りたたみ、次の共犯者を待った。



 約束の時間きっかりに、エレオノーラ・フォン・ヴァインベルク伯爵令嬢は私の私室に姿を現した。侍女を下がらせ、二人きりになると、彼女は皮肉っぽく口の端を上げた。

 「それで、公爵夫人。次の企みは何かしら?あなたのせいで、退屈だった社交界が少しばかり面白くなってきたのだから、がっかりさせないでちょうだい」

 彼女はソファに深く腰掛けると、面白そうに私を見つめる。その瞳は、もはや単なる傍観者のものではなかった。物語の登場人物になることを決めた者の、好奇心に満ちた輝きがあった。

 「企みだなんて、人聞きの悪いこと。これは、皆の健康を願う、ささやかな啓蒙活動ですわ」

 私がそう言って微笑むと、彼女は「よく言うわ」と肩をすくめた。

 私は彼女に、ダニエル軍医の見解書の写しと、三百年前の日誌から抜粋した要約を手渡した。彼女は紅茶に口もつけず、その二つの書類に没頭し始めた。

 部屋に落ちる沈黙。彼女の細い指が紙の上を滑り、知的な灰色の瞳が素早く文字を追っていく。やがて、彼女は顔を上げ、長いため息をついた。

 「……なるほど。馬鹿馬鹿しいにも程があるわね。私たちの尊い伝統の正体が、三百年前のパニックだったなんて。最高の皮肉だわ」

 その口調は冷笑的だったが、声には隠しきれない興奮が混じっていた。

 「これを、どう使うおつもり?」

 「公然と発表するのは、まだ先です。まずは、この事実を『然るべき方々』の耳に、非公式に届けたいのです」

 「然るべき方々、ね。つまり、オルブライト子爵夫人のような、頭の硬い化石ではない人たちのことかしら」

 「ご明察ですわ、エレオノーラ様」

 私は彼女の名前を呼び、共犯者としての視線を交わした。「あなたにお願いしたいのは、貴婦人方のサロンです。特に、ご家族に病弱な方や、ご高齢の方がいらっしゃる奥様方。そういう方々に、これは『公爵夫人が広めている噂』ではなく、『憂慮すべき事実』として、あなたの口から伝えていただきたいの」

 噂は、否定されれば消える。しかし、心配や不安に寄り添う形で提示された事実は、人の心に深く根を張る。

 エレオノーラは、私の意図を正確に読み取ったようだった。彼女の唇に、三日月のような笑みが浮かぶ。

 「面白そうね。人の心の裏をかくのは、私の得意分野だわ。『ねえ、お聞きになって?大変なことが分かったの。私たちの信じてきたこと、実は……』なんて、不安そうに囁いて差し上げればいいのでしょう?任せてちょうだい。あの人たちの偽善的な同情心をくすぐるのは、赤子の手をひねるより簡単よ」

 頼もしい言葉だった。彼女の持つ知性と皮肉は、こういう時にこそ最大の武器になる。

 「もう一人、協力者が必要です」と私は続けた。「紳士方の世界は、私の手には余りますから」



 執事長のブランドンは、私の執務室で、同じ書類を読んでいた。エレオノーラとは対照的に、彼は一切の感情を表情に出さず、ただ淡々と事実を確認するように文字を追っていた。

 「……なるほど。理に適っております」

 読み終えた彼は、静かに書類を机に置いた。「家の利益、ひいては領地全体の利益に繋がる、極めて重要な情報です。これを非公式に展開する、と。奥方のお考えは?」

 「はい。ブランドン、あなたには、家令や騎士団長など、比較的穏健で、実利を重んじる方々へ、この情報を伝えていただきたいのです。公爵家の執事長であるあなたが『家の健康問題として憂慮している』という形で」

 「承知いたしました。それは私の職務の範囲内です」

 彼は即答した。彼の判断基準は常に明確だ。家の利益になるか、ならないか。そしてこの件は、間違いなく前者だった。

 「ターゲットは、家族への情が深い人物、そして、自身の健康に不安を抱え始めた壮年の男性に絞りましょう。噂話のようにならぬよう、あくまでも『公爵家の健康管理責任者としての懸念』という体裁で、個別に話をします」

 完璧な作戦だった。貴婦人たちの間ではエレオノーラが「共感と不安」を煽り、紳士たちの間ではブランドンが「論理と実利」を説く。二つの流れが合わさった時、冷製派という一枚岩に見えた壁は、内側から静かに崩れ始めるはずだ。

 「よろしく、お願いします」

 私が頭を下げると、ブランドンはわずかに頷き、部屋を出ていった。彼の背中には、静かな闘志が満ちていた。


 それから数日、屋敷の中は嵐の前の静けさだった。

 しかし、外の世界では、私たちが放った二つの矢が、確実に的を射抜き始めていた。

 フィーが、侍女たちのネットワークを通じて、最新の社交界の情報を運んでくる。

 「奥様、聞きました?バークレイ子爵が、持病の喘息持ちの奥様のために、侍医を呼び寄せたそうですわ。『食事について相談したい』と」

 「それから、男爵家の若奥様が、お姑様のために温かいスープの作り方を、うちの厨房の者にこっそり尋ねに来たとか」

 エレオノーラは、もっと直接的な報告を、短い手紙で寄越した。

 『オルブライト夫人のサロン、出席者が三割減よ。表向きは「体調不良」ですって。笑えるわね。彼女の周りに侍っているのは、もはや何の思慮もない、ただ声が大きいだけの取り巻きだけ。氷の女王も、足元から溶け出せばただの老婆よ』

 ブランドンからの報告は、より具体的だった。

 「先日話をした騎士団長が、遠征時の兵糧について、温かいものを携行できないか、と非公式に打診してきました。また、数名の貴族から、ファーメント軍医への紹介を依頼されております」

 誰も、公然と私に賛同したわけではない。

 誰も、「冷製主義は間違いだ」と声を上げたわけではない。

 しかし、水面下では、確実に変化が起きていた。人々は、伝統という名の大きな船に乗り続けることに、わずかな不安を覚え始めたのだ。家族の顔を思い浮かべ、自身の体の声に耳を澄ませ、そして沈黙する。

 その沈黙こそが、私にとっては何よりの勝利の証だった。

 強硬派は、自分たちの足元が崩れ始めていることにまだ気づいていない。彼らが気づいた時には、もう周りには誰もいなくなっているだろう。

 私は、フィーが淹れてくれた温かいハーブティーの湯気を、静かに見つめていた。カップの中で、小さな渦がゆっくりと回っている。

 大きな波が来る前の、静かな、確かな予感がした。

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