第2話 一杯のスープと初めての「おかわり」
翌朝、私が厨房の重い扉を開けると、すでに始まっていた仕込みの音がぴたりと止んだ。十数人の料理人たちの視線が、刃物のように突き刺さる。挨拶一つない。それどころか、彼らは示し合わせたように私から顔をそむけ、再び作業に戻った。まるで、私がそこに存在しないかのように。
完全な無視。昨日、家令が厳しく釘を刺したのだろう。新入りの、しかも形ばかりの奥方になど従うな、と。
だが、望むところだった。馴れ合いに来たわけではない。
私は構わず、厨房の隅にある戸棚へ向かった。その様子を、洗い物をしながらも、鏡のように磨かれた大鍋に私を映して観察している視線が一つ。年の頃は三十代半ばだろうか。きつく結い上げた髪と、筋の通った鼻梁が印象的な女性。侍女長のフィーだ。
彼女の目には、他の料理人たちのようなあからさまな敵意はない。ただ、長年の不満が澱のように沈んだ、探るような色が浮かんでいた。
「奥方様、そのような干からびた野菜で、一体何を?」
私が戸棚から干しキノコと玉ねぎを取り出すと、背後から料理長の、ねっとりとした声がした。嫌がらせのつもりだろう。
「温かいスープですよ。まずは、胃を温めることから始めないと」
「はっ、スープなら私が礼法に則った極上の冷製コンソメをご用意します。奥方様のお手を煩わせるまでもございません」
料理人たちの間から、くすくすという嘲笑が漏れる。
「結構です。これは、私が飲むものですから」
私がそう言って微笑むと、料理長はつまらなそうに鼻を鳴らして持ち場に戻っていった。
私は手頃な鍋を探し、火にかける。だが、どこからか「おっと、その鍋は夕食のソースに使うんでね」「悪いな奥さん、そこの水はパイ生地に使う分だ」と、間接的な妨害が続く。見事な連携プレーだ。
私はため息一つつかず、一番隅にあった、埃をかぶった小さな寸胴鍋を引っ張り出した。そして、水場から自分で桶に水を汲んでくる。その一連の迷いのない動きを、フィーだけが、手を止めてじっと見ていた。
私が干し野菜を水で戻し始めると、ついに彼女が口を開いた。
「……お手伝いしましょうか」
その声は、試すようだった。
「あら、いいのですか?家令様から、私には関わるなと言われているのでしょう?」
私の率直な言葉に、フィーは少し驚いたように目を見開いた。
「……なぜ、それを」
「この厨房の空気で分かります。ですが、あなたは違う。ここの誰よりも、『本当の味』を知りたそうな顔をしていますから」
私はフィーの目をまっすぐに見つめて言った。彼女は一瞬息を呑み、それからふっと、諦めたように笑った。
「……参りました。ええ、その通りです。私はもう、冷たくて味のしない儀式にはうんざりしております。何か、私にできることは?」
ようやく、一人目の共犯者ができた。
「では、お願いがあります。この塩漬け肉、少し塩抜きを手伝っていただけますか?美味しいスープの素になるんです」
*
夕食の時間。
ダイニングルームには、昨日と同じように、長いテーブルの両端に私と公爵が座っている。
やがて、家令が恭しく盆を運んできた。公爵の前には、料理長が作った完璧な冷製コンソメが置かれる。そして、私の前には何も置かれない。無言の圧力だ。
そこへ、侍女長のフィーが、もう一つの盆を手に、静かに入室してきた。盆の上には、湯気の立つ、琥珀色のスープが一つ。
「奥方様、お食事をお持ちいたしました」
フィーが私の前にスープを置くと、家令が鋭い視線を彼女に向けた。
「フィー!何を勝手なことを!閣下の前だぞ!」
「家令様。私は、奥方様付きの侍女長として、主の食事の世話をしているだけです。何か問題でも?」
フィーは一歩も引かずに言い返した。その毅然とした態度に、家令はぐっと言葉に詰まる。
その、ささやかな戦いを、アレスティード公爵は無表情に眺めていた。彼の前には、二つのスープが並んでいる。一つは、礼法に則った、完璧に冷たいコンソメ。もう一つは、私が作った、素朴で温かい根菜のスープ。
ふわりと、温かい湯気が立ち上る。干し肉と野菜の、素朴で食欲をそそる香り。
公爵は、訝しげにその琥珀色の液体を見つめている。彼の瞳には、まだ深い警戒の色が浮かんでいた。
長い沈黙の後、公爵は躊躇いがちに、銀の匙を手に取った。家令の顔に、安堵の色が浮かぶ。当然、礼法通り、コンソメを選ぶだろうと。
だが、公爵の匙が向かったのは――私が作った、温かいスープの方だった。
家令の顔から、さっと血の気が引く。
公爵は、スープを一口、ゆっくりと口に運んだ。
その瞬間だった。
彼の体内で、凍っていた何かが、カラン、と小さな音を立てて溶けるような感覚がした。澱んでいた魔力が、温かいスープに促されて、ほんのわずかに巡り始める。
公爵のアイスブルーの瞳が、驚きに見開かれた。
それは、ほんの一瞬の変化。だが、私にははっきりと分かった。彼は今、自分の体の中で起きた小さな奇跡に、誰よりも驚いているのだ。
「……悪くない」
低く、呟くような声が響いた。
「左様でございますか」
私は表情を一切変えず、ただそう返した。内心で、小さくガッツポーズをしたのは彼には秘密だ。
公爵はそれきり黙って、しかし、昨日とは明らかに違う速さでスープを飲み進めていく。硬直していた肩の力が抜け、その横顔が心なしか和らいで見えた。
やがて、皿は空になった。
「お粗末様でした」
私が盆を下げようと、皿に手を伸ばした、その時だった。
*
「……おかわり」
静かだが、はっきりとした声だった。
私は思わず動きを止める。聞き間違いかと思った。しかし、その声は間違いなく、目の前の氷の公爵から発せられたものだった。
ゆっくりと顔を上げると、私は自分の目を疑った。
アレスティード公爵が、私をまっすぐに見つめていた。
その瞳は、いつもと同じアイスブルーのはずなのに、なぜか光を宿して潤んでいるように見える。警戒心や無関心といった氷の壁が溶け落ち、その奥にある、もっと柔らかくて、無防備な何かが覗いていた。
それはまるで、生まれて初めて温かいミルクを与えられた、迷子の子犬のような目だった。
もっと欲しい、と。そう言いたげな、期待と戸惑いが入り混じった眼差し。
私は一瞬、言葉を失った。
「いい子」をやめて、我慢を捨てて、ただ自分の信じることをしただけだ。温かいものを、この冷え切った人に届けたかっただけだ。
それが、こんな顔をさせるなんて。
「……かしこまりました。すぐに、お持ちいたします」
私はどうにかそれだけを答え、空になったスープ皿を手に取った。心臓が、少しだけ速く打っている。
ダイニングルームを後にする私の背中に、彼の視線が突き刺さっているのを感じながら、私は固く誓った。
次からは、私の温度で。
この冷たい城のすべてを、私のやり方で、温かいもので満たしてみせると。




