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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第28話 軍医という最強の証人

 書庫で見つけた古い日誌は、ずしりと重かった。三百年前の絶望と恐怖が、乾燥した紙の一枚一枚に染み込んでいるようだった。

 翌朝、私はその日誌を丁寧に布で包み、もう一つの武器を手に、屋敷を出た。フィーがまとめてくれた、兵舎での炊き出しを始めてからの兵士たちの健康状態に関する克明な記録。欠勤率の低下、軽度の凍傷や風邪からの回復速度の上昇、そして何より、兵士たち自身が聞き取り調査に答えた「体調が良い」という声の数々。

 馬車に揺られながら、私は窓の外を流れる灰色の空を見つめていた。

 歴史という名の呪いを解くには、過去の真実だけでは足りない。現在を生きる人々のための、「未来」に繋がる証明が必要だ。

 その証明を与えてくれるであろう人物の元へ、私は向かっていた。伝統や礼法といった曖昧なものではなく、数字と事実、そして人体の摂理という、揺るぎない物差しを持つ人物。

 アレスティード公爵領の軍医、ダニエル・ファーメント。彼こそが、この戦いにおける最強の証人になる。私はそう確信していた。



 軍医の診療所は、兵舎の敷地の片隅に立つ、質実剛健な石造りの建物だった。

 扉を開けると、薬草を煎じる独特の匂いが鼻をついた。清潔だが、華美な装飾は一切ない。壁には人体の骨格図が貼られ、棚には薬瓶が整然と並んでいる。ここで交わされる会話は、身分や体面ではなく、命そのものなのだと、その空気が語っていた。

 「公爵夫人様。このような場所へ、一体どのようなご用件で」

 奥の診察室から現れたのは、少し疲れた顔をした中年の男だった。無精髭がうっすらと生え、白衣の袖は少し擦り切れている。しかし、私を射抜くように見るその瞳には、鋭い知性と探究心の色が宿っていた。彼がダニエル軍医だった。

 突然の主君の妻の訪問に、彼の声には隠しきれない警戒が滲んでいる。無理もない。貴族の女が、気まぐれで冷やかしに来るような場所ではないのだから。

 「お時間をいただき、感謝いたします、ファーメント軍医。本日は、あなたに専門家としてのご意見を伺いたく、参上いたしました」

 私は挨拶もそこそこに、持参した書類の束を彼の机に置いた。

 「これは……兵士たちの健康記録、ですか」

 彼は訝しげに眉を寄せながらも、書類を手に取った。私は黙って、彼がページをめくるのを待つ。

 最初は、ざっと目を通すだけだった彼の動きが、次第に遅くなっていく。指が、特定の項目でぴたりと止まる。眉間の皺が深くなり、鋭い目が何度も同じ箇所を往復する。

 「……驚いた。この三ヶ月で、体調不良による任務離脱者が四割も減少している。特に、消化器系の不調を訴える者が激減しているな」

 彼の声から、警戒の色が薄れ、純粋な医学者としての興味が顔を覗かせた。

 「原因に、心当たりがおありですか」と私が問うと、彼は腕を組み、唸った。

 「正直なところ、分からなかった。士気が上がっているのは感じていたが、これほど明確な数字の変化は……。一体、何を変えたのですか?」

 「食事です」

 私はきっぱりと答えた。「毎日、温かい食事を提供するようにした。ただ、それだけです」

 「温かい、食事……」

 ダニエル軍医は、その言葉を吟味するように繰り返した。彼の顔に、わずかな戸惑いの色が浮かぶ。彼もまた、この土地の常識の中で生きてきた人間なのだ。

 「確かに、栄養バランスの改善は大きいでしょう。しかし、それが『温かい』ことと、これほどの体調改善に直接的な因果関係があると?」

 「ええ。あると、私は考えています」

 私は彼の疑念を真正面から受け止め、そして、布に包んだ古い日誌を、書類の上にそっと置いた。

 「そして、その理由が、ここに」

 ダニエル軍医は、怪訝な顔でその古びた本に視線を落とした。私が布を解き、黒い革の表紙を見せると、彼の目がわずかに見開かれた。

 「これは……まさか、三百年前の『大疫病』の時代のものか」

 「ええ。当時の医者が残した日誌です。軍医、あなたならば、この価値がお分かりになるはず」

 彼は唾を飲み込み、震える手で日誌を受け取った。私が指し示したページを、彼は食い入るように読み始めた。

 診察室に、乾いた紙をめくる音だけが響く。

 彼の表情が、刻一刻と変わっていくのを、私は息を詰めて見守っていた。

 最初は、歴史的資料に対する学術的な好奇心。

 それが、瘴気と温かい空気に関する記述に差し掛かった時、専門家としての深い懐疑に変わった。

 そして、『火を使う調理を禁ずべし』という一文を読んだ瞬間、彼の顔から血の気が引いた。懐疑は、驚愕へ。

 ページをめくるごとに、彼の呼吸が荒くなっていく。驚愕は、やがて静かな、しかし燃えるような怒りへと変貌していった。

 「……馬鹿な」

 彼が絞り出した声は、低く、掠れていた。

 「こんなことが……。ただの迷信じゃないか。根拠のない、パニックが生み出した妄想だ。こんなものが、我々の『伝統』の正体だったというのか」

 彼は日誌を閉じると、両手で顔を覆った。医師としての彼のプライドが、三百年間も人々を縛り付けてきた偽りの常識に、根底から揺さぶられているのが分かった。

 「軍医」と、私は静かに呼びかけた。

 「伝統とは、時に見直されるべきものではないでしょうか。特に、それが人々の健康を脅かしているのなら」

 彼はゆっくりと顔を上げた。その瞳に宿っていたのは、もはや私への警戒心ではない。偽りの伝統に対する、医師としての強い憤りと、真実を求める者だけが持つ、決意の光だった。

 「公爵夫人。あなたは、私に何を望まれる」

 「あなたの言葉が欲しいのです」

 私は彼の目をまっすぐに見つめ返した。

 「『医学的見地から断言する』という、あなたの言葉が。この日誌は過去の記録です。ですが、あなたがまとめた兵士たちの健康データは、現在の、そして未来の事実です。過去の呪いを、現在の真実で打ち破る。そのためには、あなたの力が必要なのです」

 ダニエル軍医は、机の上の日誌と健康記録を交互に見つめ、長い沈黙の後、ふっと息を吐いた。それは、迷いを振り払うような、力強い息だった。

 「……面白い。実に、面白い」

 彼は、初めて笑みらしいものを浮かべた。それは、戦いを見つけた兵士のような、好戦的な笑みだった。

 「よろしいでしょう。医師として、この馬鹿げた迷信を看過することはできない。兵士たちの健康データと、この日誌の記述を元に、公式な医学的見解書を作成します。このダニエル・ファーメントの名において、温かい食事が健康に与える有益性を、私が証明しましょう」

 力強い言葉だった。三百年の呪縛に、科学という名の楔を打ち込む、最初の槌音だった。

 私は椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。

 「ありがとうございます、ファーメント軍医」

 「礼には及びません、夫人。むしろ、礼を言うのはこちらの方だ」

 彼は立ち上がり、私の目を見て言った。

 「あなたは、三百年間誰も気づかなかった病巣を、見つけ出してくださった。あとは、我々医者の仕事です」

 私は彼の差し出した、インクと薬草の匂いがする、ごつごつとした手を固く握り返した。

 確かな手応えが、そこにあった。

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