第27話 「冷製主義」という名の呪い
オルブライト子爵夫人たちが逃げるように去っていった後、厨房には奇妙な静けさが残った。
勝利は、したのだろう。彼女たちの完敗だった。しかし、私の心に残ったのは、高揚感よりもむしろ、底冷えのするような違和感だった。
あの時の、子爵夫人の瞳。浮かんでいたのは、単なる屈辱や怒りだけではなかった。もっと根深い、何かを冒涜されたかのような、ほとんど信仰に近いほどの強い拒絶。
なぜ、あれほどまでに「温かい食事」を憎むのか。
ただの伝統や礼法という言葉だけでは、あの執念は説明できない。まるで、温かい食べ物そのものが、彼女たちの世界を根底から脅かす、禁忌であるかのように。
実家で私を縛り付けていた「いい子でいなさい」という言葉も、一種の呪いだった。けれど、それは父や継母の体面や利益という、分かりやすい欲望に根差していた。しかし、彼女たちの信じる「冷製主義」の根は、もっと暗く、深い場所にある気がしてならなかった。
分からなければ、動けない。敵の正体が見えなければ、本当の意味で勝利することはできない。
私はエプロンを外し、フィーに後のことを頼むと、一つの場所を目指した。
アレスティード公爵家の、書庫へ。
この土地に深く根を張る、その呪いの正体を、私はこの手で暴き出す必要があった。
*
公爵家の書庫は、時間が止まったかのような静寂に満ちていた。
天井まで届く書架には、革の背表紙がびっしりと並び、空気は乾燥した紙と古いインクの匂いがする。窓から差し込む光の筋が、空気中を舞う無数の埃をきらきらと照らし出していた。
私はまず、礼法や作法に関する書物を片っ端から手に取った。しかし、そこにあるのは「公式晩餐会は冷製を基本とする」といった記述ばかりで、その理由については、どれも「古くからの慣わしであるため」としか書かれていない。まるで、誰もその起源を問うことすらしてこなかったかのように。
次に、料理に関する古書を調べてみる。だが、こちらも成果はなかった。塩漬けや酢漬け、燻製といった保存食の技術に関する記述は豊富だが、「なぜ温かい調理法が廃れたのか」という肝心な問いには答えてくれない。
日が傾き、書庫の中に夕暮れの茜色が差し込み始める。私は何時間も、成果のないまま埃っぽい書物の山と格闘していた。焦りと疲労で、思考が鈍ってくる。
一度、手を止めよう。
私は椅子に深くもたれ、目を閉じた。頭の中で、これまでの情報を整理する。礼法でも、料理法でもないとしたら。視点を変える必要がある。
これは、食文化の問題ではないのかもしれない。もっと別の、人々の生活に深く関わる、何か。
ふと、ある言葉が頭に浮かんだ。「健康」。
私が彼女たちに突きつけた、温かい食事の利点。ならば、その逆も然り。かつて、この土地で「温かい食事」が「不健康」だと見なされた出来事があったのではないか?
私は再び立ち上がると、今度は書庫の奥深く、郷土史や医学史が収められている一角へと向かった。そこは、ほとんど人の出入りがないのだろう。他の場所よりも、ひときわ埃っぽかった。
指先で背表紙をなぞりながら、一冊ずつタイトルを確認していく。『北方諸侯の系譜』『鉱山都市の変遷』『薬草学大全』……。
そして、私の指が、一冊の分厚い本の上で止まった。
タイトルはない。ただ、黒い革で装丁された、古い手記のような本。引き抜いてみると、ずしりと重い。表紙には、かろうじて『地方医日誌』という型押しが読み取れた。
ページをめくると、古風な、癖の強いインクの文字が目に飛び込んできた。三百年前の、この土地の医者が書き残した日誌だった。
最初は、ありふれた診察記録が続いた。風邪、怪我、出産。私は辛抱強くページをめくり続けた。そして、あるページで、私の目は釘付けになった。
日付が、急に乱れている。インクの染みがあちこちに飛び、焦りと混乱が文字から滲み出ていた。
――『煤闇病、猛威を振るう。高熱と黒い咳を発し、三日にて命を奪う悪疫なり。防ぐ術なし』
心臓が、どきりと音を立てた。
ページをめくる指が、微かに震える。そこから先は、地獄の記録だった。日に日に増えていく死者の数。薬草は効かず、祈祷も意味をなさない。街は死の匂いに満ち、人々は絶望していた。
そして、私は決定的な一文を見つけてしまった。
――『一つの仮説に至る。この悪疫は、瘴気によって運ばれる。とりわけ、火によって温められた空気は、瘴気を活性化させ、その毒性を増すのではないか』
息が、詰まった。
日誌の主である医者は、必死だったのだろう。彼は、藁にもすがる思いで、この仮説に飛びついた。
『火を使う調理を禁ずべし』
『食事は全て、冷たいまま食すべし』
『温かい湯気は、死の息吹なり』
狂気じみた記述が、そこから何ページにもわたって続いていた。当時の未熟な医学が生み出した、悲しい迷信。疫病への恐怖が、人々から温かい食事を奪い去ったのだ。
やがて、流行り病は過ぎ去った。しかし、一度人々の心に深く刻み込まれた恐怖は、消えなかった。
「温かい食事は、病を運ぶ」
その恐怖は、いつしか「火を使わない冷たい食事こそが、清浄で、規律正しい」という歪んだ価値観へとすり替わっていった。生き延びるための必死の策が、三百年という時を経て、権威と品位の象徴という、全く別の仮面を被っていたのだ。
これが、「冷製主義」の正体。
厳格さの象徴でも、北方の誇りでもない。
ただの、古い恐怖が生み出した、巨大な呪い。
パタン、と音を立てて、私は日誌を閉じた。
その乾いた音は、しんと静まり返った書庫に、やけに大きく響いた。
私は、冷たい革の表紙を、そっと指でなぞる。
そう、これだったのか。彼女たちが守りたかったものの、本当の姿は。
私の唇の端に、自嘲とも、あるいは武者震いともつかない、微かな笑みが浮かんだ。
呪いならば、解けばいい。
恐怖がその根源ならば、真実という光で、その根を焼き払うまでだ。
私はその古い日誌を胸に抱き、静かに立ち上がった。窓の外は、もうすっかり夜の闇に包まれていた。




