第26話 抜き打ちの厨房視察
秘密の『覚書』が水面下で静かに波紋を広げ始めてから、一週間が経った日の午後だった。
私はフィーと共に、来月の献立について話し合っていた。窓から差し込む陽光は柔らかく、厨房にはパンが焼ける香ばしい匂いが満ちている。穏やかな、日常の風景。
その静寂を破ったのは、慌ただしい足音と共に現れた執事長のブランドンだった。
「奥方様。……お客様が、お見えです」
彼の表情は、いつになく険しい。ただの来客ではないことを、その一言で悟った。
「どなたですの?」
「オルブライト子爵夫人と、お付きの方々が五名」
その名を聞いて、私とフィーは顔を見合わせた。冷製派の筆頭。社交界で最も声高に私を非難している、あの老婦人だ。
ブランドンは、苦々しげに言葉を続けた。
「事前のお約束もなく、正面玄関から。そして、こう仰せです。『公爵夫人の素晴らしい厨房運営を、ぜひ拝見し、学ばせていただきたい』と」
なるほど。宣戦布告というわけだ。
秘密の冊子が、彼女たちの耳にも入ったのだろう。水面下の動きに苛立ち、焦り、ついに実力行使に打って出た。目的は明白。アポイントメントなしで押しかけ、準備のできていない厨房の惨状を暴き立て、私の評判を地に落とすこと。不衛生、食材の無駄遣い、規律の乱れ。何でもいい。一つでも証拠が見つかれば、彼女たちの勝ちだ。
「……分かりました。すぐに応接室へ」
「いえ、奥方様」ブランドンは私の言葉を遮った。「お客様方は、応接室ではなく、こちらへ直接向かっておられます」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、厨房へ続く廊下の向こうから、甲高い声と複数の衣擦れの音が聞こえてきた。
「まあ、奥様!なんてこと!」
フィーが青ざめる。抜き打ちどころではない。これは奇襲、いや、敵前上陸だ。
だが、私の心は不思議なほど静かだった。
「フィー。お客様をお迎えする準備を。一番良いカップと、それから、あのスープを温めておいて」
「しかし、奥様!」
「大丈夫」
私は微笑んで、彼女の肩を軽く叩いた。
「見せて差し上げましょう。私たちの、戦場を」
*
厨房の扉が、断りもなく勢いよく開かれた。
先頭に立っていたのは、オルブライト子爵夫人。銀灰色の髪を高く結い上げ、鷲のような鋭い目で、厨房の隅々を睥睨する。その後ろには、扇で口元を隠しながら、好奇と侮蔑の入り混じった視線を投げる貴婦人たちが続く。
「ごきげんよう、アレスティード公爵夫人。突然の訪問、お許しあそばせ」
言葉とは裏腹に、その声には謝罪の色など微塵もない。
「まあ、オルブライト子爵夫人。ようこそおいでくださいました」
私はスカートの裾を優雅につまみ、完璧な淑女の礼をしてみせた。内心の闘志は、穏やかな微笑みの下に隠して。
「皆様、遠路はるばる、このような裏方まで足をお運びくださるとは。よほど、我が家の台所事情にご興味がおありなのですね」
私の言葉に含まれた微かな皮肉に、子爵夫人の眉がぴくりと動く。
「ええ、もちろん。あなたの『温かい』お料理の噂は、かねがね。その源泉が、どのような場所なのか、ぜひこの目で確かめとうございましたの」
彼女はそう言うと、私への返礼もそこそこに、厨房の中へとずかずかと踏み込んできた。まるで、家宅捜索に乗り込んできた役人のように。
彼女たちの探す目は、執拗だった。
まず、床。彼女たちは、塵一つないかと、ドレスの裾が汚れるのも厭わずに床を見下ろす。だが、そこにあるのは、毎日きっちりと磨き上げられた石の床だけだ。
次に、調理台。使い終わった調理器具が放置されていないか、食材の切れ端が散らばっていないか。しかし、ステンレスの調理台は鏡のように光を反射し、布巾は白く清潔に洗濯され、きちんと畳まれている。
鍋やフライパンの棚。煤の汚れ、油の付着。だが、並んでいる銅鍋は、どれも職人が手入れしたかのように、鈍い輝きを放っていた。
「……ずいぶんと、片付いておりますのね」
一人の貴婦人が、感心したのか、あるいは当てが外れたのか、曖昧な声を漏らした。
「ええ。衛生管理は、食の基本ですもの」
私はにこやかに答える。
子爵夫人は面白くなさそうに鼻を鳴らすと、次の標的へと向かった。巨大な保存食庫だ。ここならば、管理のずさんさが見つかるだろうと踏んだに違いない。
フィーが重い扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ出してきた。
「まあ……!」
貴婦人たちから、驚きの声が上がる。
そこは、混沌とは無縁の世界だった。小麦粉や豆の袋は種類ごとに整然と積み上げられ、壁際の棚には、塩漬け肉、干し魚、ピクルスの瓶が、美しいグラデーションを描いて並んでいる。何より彼女たちを驚かせたのは、その全てに、中身と日付が記された、美しい手書きのラベルが貼られていたことだ。
「素晴らしい管理ですわね」
思わず、といった様子で呟いたのは、子爵夫人の隣にいた男爵夫人だった。彼女はすぐに、子爵夫人の厳しい視線に気づき、慌てて口をつぐむ。
「見かけだけを整えても、中身が伴っていなければ意味がありませんわ」
子爵夫人は負け惜しみを言うと、一つのピクルスの瓶を指さした。
「例えば、その野菜。旬の時期を過ぎた、古いものではございませんこと?」
「いいえ」と私は即答する。「それは、収穫期に余剰となった野菜を、無駄にしないよう酢漬けにしたものです。むしろ、最も美味しい時期の味を閉じ込めておりますのよ」
私の淀みない答えに、子爵夫人はぐっと言葉に詰まる。
彼女たちの顔に、焦りの色が浮かび始めた。埃も、汚れも、無駄遣いの痕跡も、どこにも見つからない。彼女たちが期待していた「野蛮でずさんな厨房」は、どこにも存在しなかった。そこにあったのは、規律と愛情によって完璧に統治された、小さな王国だった。
*
一通りの視察を終え、彼女たちが手持ち無沙汰になったのを見計らって、私は声をかけた。
「皆様、お疲れでしょう。ささやかですが、お茶をご用意いたしました。どうぞ、あちらのテーブルへ」
厨房の隅に設えられた、職員用の簡素なテーブル。貴婦人たちが座るには、あまりに不釣り合いな場所だ。しかし、ここで断れば、彼女たちの敗北は決定的になる。子爵夫人は、屈辱に顔を歪めながらも、無言で椅子に腰を下ろした。
やがて、フィーが銀の盆に乗せて、温められたスープを運んできた。
透き通った琥珀色。立ち上る湯気と共に、野菜とハーブの、深く、そして優しい香りが広がる。
「……これは?」
子爵夫人が、訝しげにカップを見下ろす。
「コンソメスープでございます。どうぞ、冷めないうちに」
貴婦人たちは、互いに顔を見合わせ、躊躇いがちにカップを手に取った。一口、その液体を口に含む。
その瞬間、彼女たちの顔から、険しさが消えた。驚き、そして、抗いがたい美味への感嘆。滋味深い味わいが、冷え切った体にじんわりと染み渡っていくのが分かるのだろう。
「……美味しい」
誰かが、ぽつりと呟いた。
子爵夫人でさえ、その味を否定することはできず、無言で二口、三口とスープを飲み進めている。
私は、全員がカップの半分ほどを飲み干したのを見計らって、静かに口を開いた。
「お口に合いましたようで、何よりですわ」
そして、私は微笑んだ。天使のような、しかし、悪魔の囁きを伴った微笑みで。
「そのスープの出汁は、本日、皆様がご覧になった厨房で、本来であれば捨てられてしまうはずだったものから、お作りいたしましたの」
ぴたり、と貴婦人たちの動きが止まった。
「人参や玉ねぎの皮、セロリの葉の硬い部分、鶏の骨。それらを、ことことと、時間をかけて煮詰めて。……皆様が『価値がない』とお思いになるものにも、これだけの『いのち』が宿っておりますのよ」
貴婦人たちの顔が、さっと青ざめていく。自分たちが今、口にしたものが、普段ならゴミ箱に捨てているはずの「クズ」から作られたと知って、その尊厳は深く傷つけられたに違いない。
オルブライト子爵夫人は、カタン、と音を立ててカップをソーサーに戻した。その手は、屈辱に微かに震えている。彼女は私を睨みつけた。その瞳には、怒りと、そして、完敗を認めるしかなかった者の、深い絶望の色が浮かんでいた。
彼女は何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだ。
やがて、重い沈黙を破って、彼女は静かに立ち上がった。
「……長居をいたしましたわね。本日は、大変、勉強になりましたこと」
絞り出すような声でそれだけ言うと、彼女は付き人たちを促し、逃げるように厨房を後にした。その足取りは、来た時のような傲慢さは微塵もなく、ただただ、惨めだった。
私は、彼女たちの背中が見えなくなるまで、静かに見送った。
厨房には、まだ温かいコンソメスープの、優しい香りだけが残っていた。




