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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第25話 秘密の料理目録

「……あなた、見ていたのね」

 エレオノーラ嬢の静かな声が、人の喧騒から切り離された廊下に響いた。その瞳は、もう私を値踏みするような色を浮かべてはいない。ただ、純粋な問いだけがそこにあった。

「見ていました」

 私は正直に頷いた。嘘や取り繕いは、この人には通用しない。

「あなたが、我慢しているのを」

 私の言葉に、彼女はふっと息を吐き、皮肉っぽく口の端を上げた。

「お優しいこと。同情のつもりかしら、公爵夫人」

「いいえ」私は首を横に振る。「同情ではありません。……同類、だと思っただけです」

 その答えは、彼女にとって予想外だったらしい。エレオノーラ嬢はわずかに目を見開き、私の顔をじっと見つめた。彼女の冷たい仮面の下に、ほんの少しだけ素の表情が覗いたような気がした。

「同類……ですって? 噂に聞く『公爵閣下に溺愛される夫人』が、私と?」

「噂は、所詮噂ですわ。私が言っているのは、もっと別のこと。……平気なふりをして、一人で耐えるのは、もうやめにしませんか、ということです」

 私たちは、しばらく無言で見つめ合った。彼女の瞳の奥で、激しい思考が渦巻いているのが分かる。警戒心と、ほんの少しの好奇心。そして、長年抱えてきたであろう孤独の影。

 やがて、彼女は諦めたように肩の力を抜いた。

「……面白い方ね、あなたは」

 その声には、もう棘はなかった。

「あなたのおかげで、少しだけ、体の芯が温まったわ。この借りは、いずれ返すことにしましょう」

 彼女はそう言うと、優雅に一礼し、踵を返した。その背中を見送りながら、私は確信していた。彼女は、敵ではない。そして、ただの傍観者でも、もういられないだろうと。



 その三日後、私の元にエレオノーラ嬢から一通の招待状が届いた。差出人の紋章がなければ、脅迫状と見紛うほど簡潔な文面だった。

『話がある。一人で来られたし』

 指定されたのは、王都の喧騒から少し離れた場所にある、彼女の家門が所有する小さな図書室だった。

 私が訪れると、彼女は膨大な書架に囲まれた読書用の椅子に腰かけ、一冊の本を開いていた。私に気づいても、視線は本の文字を追ったままだ。

「よく来たわね、公爵夫人。あの後、少し調べてみたの」

「何を、ですの?」

「あなたのこと、そして、あなたの敵のことよ」

 彼女はぱたんと本を閉じ、ようやく私に視線を向けた。その瞳は、獲物を見つけた狩人のように、鋭い光を宿している。

「あなたの敵は、オルブライト子爵夫人のような、頭の固い化石だけじゃない。もっと厄介なのは、彼女たちに同調することで、自分の立場を守っている日和見主義者たち。彼女たちは、伝統という名の大きな船が沈みかけていると分かっていても、自分から救命ボートに乗り移ろうとはしない。誰かが安全だと証明してくれるまで、指をくわえて待っているだけ」

 彼女の分析は、驚くほど的確だった。私が肌で感じていた社交界の空気を、彼女は言葉で見事に解剖してみせる。

「だから、必要なのは正面からの砲撃じゃない。船底に、気づかれないように、小さな穴を開けていくこと。水が少しずつ浸水してくれば、臆病な鼠から順に、我先にと逃げ出すでしょう?」

「……穴、ですか」

「ええ」

 エレオノーラ嬢は立ち上がり、私の目の前まで歩み寄ってきた。

「あなたの武器は、料理。それも、人の心と体を内側から温める、あの厄介なほど優しい料理。それを、もっと効果的に使うのよ。公然とではなく、水面下で。まるで、甘い毒のように、ゆっくりと、確実に」

 彼女の提案は、大胆で、そして少しだけ悪意に満ちていた。けれど、その核心は、私がぼんやりと考えていたことと、奇妙なほど一致していた。

 私は、思わず笑みを浮かべていた。

「それで、具体的には、どうやって『毒』を盛るおつもりで?」

 私の問いに、彼女は初めて、楽しそうな、共犯者の笑みを浮かべた。

「決まっているでしょう? 私たちが作るのよ。この社交界の、新しい『聖書』を」



 計画は、その日のうちに具体化された。

 私とエレオノーラ嬢、そしてこの計画の実行部隊として不可欠な侍女長のフィーを加えた三人が、公爵邸の一室に集まった。

「聖書、ですか?」

 フィーは、エレオノーラ嬢の過激な物言いに、少しだけ目を丸くしている。

「比喩よ」とエレオノーラ嬢はこともなげに言った。「要するに、レシピ集のこと。ただし、ただの料理本ではないわ」

 私が、計画の骨子をフィーに説明する。

「公然と配布するのではなく、信頼できる侍女たちの間で、秘密裏に回覧させる、手書きの小さな冊子を作るんです」

「まあ、秘密の回覧……!」

 フィーの目が、好奇心と興奮で輝き始めた。彼女は、こういう少しばかりスリルのある企てが好きな質らしかった。

「冊子の名前は、『温かいおもてなしの覚書』。内容は、私がこれまで作ってきた料理の中から、特に家庭で再現しやすく、効果の高いものをいくつか選んで載せます」

 私は、テーブルの上に広げた紙に、構成案を書き出していく。

「例えば、『胃の弱いご婦人のための、鶏肉と生姜のスープ』。『気の滅入った友人を励ますための、蜂蜜と木の実の焼き菓子』。『大切な客人を迎える朝の、ふかふかのミルクパン』……というように」

「素晴らしいわ」とエレオノーラ嬢が頷く。「ただのレシピじゃない。誰かのための、という『物語』を添えるのね。人は物語に弱いのよ」

「そして、ここからがエレオノーラ嬢のお役目です」

 私は、彼女に向き直った。

「それぞれのレシピに、あなたが気の利いた前書きや、ちょっとした皮肉の効いた注釈を加えてほしいのです。『これをあの石頭の子爵夫人に食べさせれば、少しは頭が柔らかくなるかも、なんて期待してはいけません』とか」

 私の提案に、エレオノーラ嬢は心底楽しそうに喉を鳴らして笑った。

「いいわね、それ。私の得意分野だわ。任せなさい」

「そして、フィー」

 私は、最後に侍女長に向き直る。

「この冊子を、誰に、どうやって渡すか。その配布網の構築は、あなたにしかできません。絶対に情報が漏れない、信頼できる侍女のネットワークを、あなたは見抜けるでしょう?」

「お任せください、奥様」

 フィーは、胸を叩いて請け負った。

「侍女の世界は、奥様方が思うよりずっと、情報の流れが速く、そして秘密は固いものです。誰が口が堅く、誰がご主人様に心から仕えているか。私には分かります」

 こうして、私たちの小さな革命の準備は整った。

 私がレシピという「弾丸」を作り、エレオノーラ嬢がそれを「知性」で磨き上げ、フィーが「人脈」という名の銃に装填する。三人の、奇妙な共犯関係が生まれた瞬間だった。



 それから数日間、私たちは冊子作りに没頭した。

 私が書き上げたレシピの原稿を、エレオノーラ嬢が受け取り、彼女の美しい文字で清書していく。彼女が加える文章は、まさに芸術的だった。

 カモミールティーのレシピには、『眠れぬ夜を過ごす友へ。ただし、夫のいびきには効果がありません』。

 野菜のポタージュには、『社交界の冷たい言葉に心が凍えたなら。お腹の中から、反撃の狼煙を上げましょう』。

 ウィットに富み、少しだけ毒があり、けれど根底には温かい思いやりが流れている。それは、エレオノーラ嬢そのもののような文章だった。

 完成した原稿は、フィーの手によって、腕の良い職人に製本を依頼された。高価な革装丁ではなく、あえて、母親が娘に手渡すような、素朴で温かみのある布の表紙を選んだ。

 最初の十冊が、屋敷に届けられた夜。

 私たちは、暖炉の前に集まり、出来上がったばかりの冊子を手に取った。インクの香りと、新しい紙の匂い。ずしりとした、確かな重み。それは、ただのレシピ集ではなかった。私たちの意志そのものだった。

 翌日、フィーは完成した冊子のうちの三冊を、風呂敷に丁寧に包んで屋敷を出て行った。

 向かう先は、エレオノーラ嬢が事前にリストアップした、穏健派の貴族の屋敷。ターゲットは、女主人本人ではない。その屋敷に仕える、思慮深く、主人思いの侍女長たちだ。

 フィーは、相手の屋敷の裏口で、古い友人と立ち話をするふりをして、そっと包みを渡す。

「……うちの奥様が、最近凝っているものでね。もし、あなたのご主人様の体調が優れないようなら、試してみるといいかもしれないわ。もちろん、これは、ここだけの話よ」

 受け取った侍女は、一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべ、しかし、すぐに全てを察したように、深く頷いた。

 その日の夕方までに、三冊の『覚書』は、三人の侍女長の手へと、確かに渡っていった。

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