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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第24話 冷笑令嬢と一杯のホットミルク

 公爵と二人きりの馬車の中は、気まずいほどに静かだった。

 先ほどのサロンでの出来事が、まだ頭の中で燃えさしのように燻っている。「夫人は、どこにいても温かさをもたらす」。あの言葉は、一体どういう意味だったのだろう。私を庇うための方便か、それとも、彼が本当に感じていることなのか。

 窓の外を流れる景色に視線を向けたまま、私は尋ねるべきか否かを決めかねていた。私たちの間にあるのは、あくまで契約だ。彼の内心を探る権利など、私にはない。

「……あの」

「なんだ」

 ほとんど同時に、声が重なった。先に口を開いたのは、私だった。

「先ほどは、ありがとうございました」

 何に対しての礼なのか、自分でもよく分からないまま、言葉が滑り出た。公爵は、私の方を見ずに、窓の外に視線を向けたまま短く答える。

「事実を述べたまでだ」

 それきり、会話は途切れた。

 事実。彼にとって、あれはただの事実でしかないらしい。けれど、その事実が、あの場でどれほどの力を持ったか、彼は分かっているのだろうか。

 私は、そっと自分の手を見つめた。彼に引かれた方の手が、まだ微かに熱を持っているような気がした。契約で結ばれただけの、冷たい関係。そのはずなのに、屋敷の空気と同じように、私たちの間の温度も、ほんの少しだけ、変わり始めているのかもしれない。

 馬車が屋敷の玄関に着くまで、私たちはもう一言も交わさなかった。



 数日後、私は再び別の茶会に招かれていた。今度は、公爵の同伴はない。私一人の、本当の意味での社交界デビュー戦の続きだった。

 会場の雰囲気は、前回とは明らかに違っていた。あからさまな敵意や侮蔑の視線は消え、代わりに好奇と警戒、そして少しの畏怖が入り混じった、探るような視線が遠巻きに私を取り囲んでいる。

 アレスティード公爵が、公の場で妻を肯定した。

 その事実は、私が想像していた以上に大きな意味を持っていたらしい。「公爵に溺愛される夫人」という、事実とはかけ離れたレッテルが、私をある種の攻撃から守る盾になっていた。

 私は誰の輪にも加わらず、壁際の椅子に腰を下ろし、静かに紅茶を口に運ぶ。無理に笑顔を振りまき、会話に加わるつもりはなかった。私がすべきことは、この場所の力関係と、誰が敵で、誰が味方になりうるのかを、冷静に見極めることだ。

 そんな私の視線の先に、見覚えのある姿があった。

 エレオノーラ・フォン・ヴァインベルク伯爵令嬢。

 前回の茶会でも、隅の席で腕を組み、全てを冷ややかに観察していた、あの皮肉屋の令嬢だ。今日も彼女は、貴婦人たちの虚栄に満ちた会話の輪から一歩離れ、面白くなさそうに窓の外を眺めている。

 彼女は、誰とも違う。その瞳には、社交界の欺瞞を見透かすような、冷たい知性が宿っていた。

 私は、彼女から目が離せなくなった。

 一見すると、彼女はただ退屈しているようにしか見えない。けれど、よく観察していると、時折、ほんの一瞬だけ、その表情が苦痛に歪むのが分かった。青白い顔。扇で隠した口元で、小さく息を吐く仕草。そして、ドレスの上から、気づかれないようにそっと腹部を押さえる、か細い指先。

 間違いない。彼女は、体の芯から冷えているのだ。

 前世の私もそうだった。ストレスと不規則な生活で体を壊し、冬でもないのに、いつも体のどこかが冷えて、鈍い痛みを抱えていた。だから、我慢している人間の、ほんの些細な仕草が手に取るように分かってしまう。

 彼女は、その聡明さゆえに、弱みを見せることを極端に嫌うのだろう。この虚飾に満ちた世界で、弱さは獲物に食い荒らされる隙でしかないことを、誰よりも理解しているに違いない。

 だから、我慢する。平気なふりをして、冷笑の仮面を被り、誰をも寄せ付けない。

 その姿が、かつての自分と重なって見えた。

 私は静かに席を立ち、会場の隅に控えていた侍女のフィーを呼び寄せた。

「フィー。主催の方に許可をいただいて、少しだけ厨房をお借りできるかしら」

「奥様、また何かお作りになるのですか?」

「ええ。ほんの少しだけ。……冷えている方に、温かいものを」

 私の言葉に、フィーは心得たとばかりに目を輝かせた。



 エレオノーラ嬢が、ふと顔を上げた。

 一人の侍女が、銀の盆を手に、彼女の前で恭しく膝を折っていたからだ。盆の上には、湯気の立つ一杯のカップが乗っている。ふわりと、甘く、そして少しだけスパイシーな香りが漂った。

 彼女は、訝しげに眉をひそめる。

「……何かしら。私は何も頼んでいないけれど」

「アレスティード公爵夫人様からの差し入れでございます、お嬢様」

 侍女の言葉に、エレオノーラの鋭い視線が、部屋の反対側に立つ私を捉えた。私は、彼女と視線が合うと、小さく会釈だけして、すぐに目を逸らした。これは、恩を売るための行為ではない。ただ、見ていられなかった、それだけだ。

 エレオノーラは、しばらくの間、カップと私を交互に見比べ、何かを推し量るように沈黙していた。彼女の周りだけ、空気が張り詰めている。

 やがて、彼女は諦めたように小さくため息をつくと、カップを手に取った。温かい陶器の感触に、彼女の指先がほんの少しだけ、驚いたように強張るのが見えた。

 カップの中身は、温かいミルクに、少しの蜂蜜と、体を温める効果のある生姜とシナモンをほんの少しだけ加えた、特製のホットミルクだ。刺激が強すぎず、けれど、じんわりと体の内側から熱を生み出してくれる。

 彼女は、警戒しながら、そっと一口だけ、それを口に含んだ。

 その瞬間、彼女が纏っていた棘のある空気が、ふわりと和らいだのが分かった。

 驚きに見開かれた瞳が、カップの中を見つめている。温かい液体が喉を通り、冷え切った体に染み渡っていく感覚を、確かめているようだった。強張っていた肩の力が、かすかに抜けていく。

 私は、それを見届けると、もうここに用はないとばかりに、静かに出口へと向かった。彼女のプライドを考えれば、これ以上、私がここにいるべきではない。

 私が扉に手をかけ、サロンを辞去しようとした、その時。

 凛とした、静かな声が、私の背中を呼び止めた。

「お待ちになって、公爵夫人」

 振り返ると、エレオノーラ嬢が、カップを片手に、まっすぐに私を見つめていた。その瞳には、もう冷笑の色はなかった。ただ、全てを見透かすような、深い知性の光だけが宿っている。

 彼女は、ゆっくりと口を開いた。


「……あなた、見ていたのね」

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