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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第23話 氷の公爵の、一ミリの擁護

 ヴァロワ男爵夫人が嵐のように去った後、サロンには奇妙な静けさと、どこか居心地の悪い熱気が残っていた。貴婦人たちは、先ほどまでの出来事を反芻するように、あるいは互いの腹を探り合うように、意味ありげな視線を交わしている。扇の向こう側で交わされる囁きは、もはや私の耳には届かない。けれど、その内容が私にとって好意的でないものも含まれているであろうことは、想像に難くなかった。

 私は、ただ静かに椅子に座り、残りの紅茶を飲み干した。エレオノーラ嬢は、相変わらずサロンの隅で腕を組み、まるで面白い芝居でも観るかのように、人間模様を観察している。時折こちらに投げられる彼女の視線には、嘲笑とは違う、純粋な好奇の色が浮かんでいた。

 今日のところは、これで十分だろう。

 冷製主義という分厚い氷に、小さな亀裂を入れることはできた。あとは、この亀裂が時間をかけて広がっていくのを待つしかない。焦りは禁物だ。急進的な改革は、必ず強い反発を招く。前世の会社で、私はそれを嫌というほど学んだ。

 主催者であるグレイ侯爵夫人が、少し疲れたような、しかし安堵したような表情で私のそばへやってきた。

「アレスティード公爵夫人様。本日は、その……大変、刺激的なお茶会でしたわ」

「ご迷惑をおかけいたしましたか、侯爵夫人」

「いいえ、とんでもない」彼女は小さく首を振る。「むしろ、長年澱んでいた空気が、少し動いたような気さえいたします」。その言葉が本心か、それともただの社交辞令か、今の私にはまだ判断がつかない。

 そろそろお暇を告げるべきだろう。私がそう考え、腰を浮かせかけた、その時だった。

 サロンの高い扉が、音もなく開かれた。

 そこに立っていたのは、アレスティード公爵、その人だった。



 彼の姿を認めた瞬間、サロンのざわめきがぴたりと止んだ。まるで、真冬の湖が一瞬で凍りついたかのように。

 黒一色の、装飾を排した軍服仕立ての上着が、彼の鍛えられた体を完璧なまでに縁取っている。感情の読めない深い色の瞳が、室内にいる全ての人間を、まるで無機物でも見るかのように静かに見渡した。その場にいる誰もが、彼の放つ絶対的な存在感の前に、呼吸をすることさえ忘れているようだった。

 契約では、公務への同行は必要時のみと定められている。そして、社交の場へ妻を迎えに来ることは、貴族の夫としてごく当たり前の「公務」の一つだった。頭では分かっている。けれど、このタイミングでの彼の登場は、私の心臓を嫌な具合に締め付けた。

 まさか、先ほどの騒動が、もう彼の耳に入っているのだろうか。

 公爵は、私を認めても特に表情を変えることなく、まっすぐにこちらへ向かって歩いてくる。彼の歩みに合わせ、貴婦人たちがモーゼの前の海のように左右に分かれて道を開けた。

 私の前に立った彼は、短く告げる。

「時間だ」

「はい、閣下」

 私は静かに立ち上がり、彼に従おうとした。

 その時、ずっと不機嫌な沈黙を守っていたオルブライト子爵夫人が、まるで最後の好機とばかりに、甲高い声で口を挟んだ。

「まあ、アレスティード閣下!ちょうど良いところへお越しになりましたわ」

 彼女は、獲物を見つけた鷹のように素早く立ち上がると、公爵の前に回り込むようにして立ちはだかった。その顔には、私への当てつけと、自らの正当性を訴えるための悲壮なまでの決意が浮かんでいる。

「本日、わたくしどもは、奥様に大変結構な『おもてなし』を賜りましたのよ」

 彼女は「おもてなし」という言葉を、まるで汚らわしいものでも口にするかのように、ことさらに強調した。サロンの全ての視線が、再び一点に集中する。私と、公爵と、そして子爵夫人が作る、小さな三角形の中心に。

「伝統あるこの北の地では、およそお目にかかれないような、大変『温かい』お菓子で、私どもを驚かせてくださいましたの。閣下は、奥様から何かお聞きになっていらっしゃいますか?」

 それは、巧妙な告げ口だった。

 私を直接非難するのではなく、夫の監督不行き届きを問う形を取っている。もし公爵が「聞いていない」と答えれば、私は夫に黙って勝手な行動を取る、統制の取れない妻ということになる。もし「聞いている」と答えれば、彼もまた伝統を軽んじる共犯者だ。

 ヴァロワ男爵夫人の罠とは、また質の違う、けれど同じくらい悪質な罠。

 私は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

 公爵が、私をどう思っているのか、私には分からない。私たちの間にあるのは、ただの契約だ。家の利益にならないと判断すれば、彼が私を切り捨てることに、何の躊躇いもないだろう。社交界で家の評判を落とす妻など、彼にとっては不要な存在のはずだ。

 最悪の場合、この場で彼から叱責され、私の立場は完全に失われる。

 私は唇を固く結び、床の一点を見つめた。今、私にできることは何もない。ただ、彼の裁定を待つだけだ。



 アレスティード公爵は、感情の起伏を一切見せなかった。

 彼は、目の前で熱弁する子爵夫人をただ無感動に見つめ、彼女が言葉を切るのを待っていた。やがて、子爵夫人が勝ち誇ったような表情で口を閉じると、彼はその視線を、ゆっくりと私に向けた。

 射抜くような、静かな瞳。

 私は、思わず息を呑んだ。彼の瞳の奥に、どんな考えが渦巻いているのか、全く読み取ることができない。

 ほんの数秒。けれど、永遠のように長い時間が流れた。

 やがて、彼は私から視線を外し、再び子爵夫人に向き直った。そして、抑揚のない、けれど部屋の隅々まで響き渡る低い声で、ただ一言、事実を告げるかのように、言い放った。

「そうか」

 彼は、わずかに間を置いた。

「夫人は、どこにいても温かさをもたらす」

 その言葉に、サロンが息を呑む音が聞こえた。

 子爵夫人の顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼女は、信じられないというように、ぱくぱくと唇を動かしている。

 公爵は、そんな彼女の様子を意に介することなく、言葉を続けた。それは、誰に聞かせるともなく、ただ事実を口にしているだけのような、淡々とした口調だった。

「この数年、屋敷がこれほど快適だったことはない」

 それは、弁護ではなかった。

 感情的な擁護でも、私への愛情を示す言葉でもない。

 ただの、事実の陳述。

 彼が、自身の体で、自身の生活で、実感している、揺るぎない事実。

 だからこそ、その一言は、どんな雄弁な反論よりも重く、鋭く、そして決定的な力を持っていた。

 それは、オルブライト子爵夫人がよって立つ「伝統」や「品位」といった曖昧な価値観を、個人の「快適さ」という、誰も否定できない絶対的な事実で、木っ端微塵に粉砕する一撃だった。

 子爵夫人は、もはや何も言えなかった。彼女は、まるで全身の力が抜けてしまったかのように、その場に崩れ落ちんばかりの様子で立ち尽くしている。

 公爵は、そんな彼女にもう一瞥もくれることなく、私に向かって手を差し出した。

「帰るぞ」

「……はい」

 私は、まだ呆然としたまま、差し出された彼の手を取った。触れた指先は、いつも通りひんやりとしている。

 私たちは、誰に会釈することもなく、静まり返ったサロンを横切って、扉へと向かう。

 扉が、私たちの背後で重々しく閉ざされた。

 息詰まるような視線の応酬があったサロンの空気が嘘のように、廊下は静まり返っている。

 私は、ただ、彼に引かれるままに歩いた。

 繋がれた手は、やはり氷のように冷たい。けれど、その確かな感触だけが、この非現実的な状況の中で、唯一の現実のように思えた。

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