第232話 温療プロトコルの現場
王立魔力医学会からの「採択通知」が届いてから、さらに半月が経った。
領都の施療院は、大氷期と氷魔事案の後始末でまだ慌ただしかったが、それでも以前のような命を巡る緊張は薄れていた。
その日の朝、ダニエルからの呼び出しで、私は施療院の会議室に向かった。扉を開けると、既に十名ほどの顔ぶれが揃っている。
領軍医療班の代表、施療院の院長、各診療所の責任医師、そして年配の看護責任者たち。机の上には白衣とエプロンが混在していた。
「夫人。お忙しいところ恐縮です」
ダニエルが立ち上がり、私を席へ案内する。
「こちらこそお招きありがとうございます。『温療プロトコル』のお話ですね」
「はい。学会への報告が認められた以上、こちらも現場での標準手順を整える必要があると判断しました」
ダニエルは机の中央に数冊の薄い冊子を置いた。
表紙には『暫定版 温療標準手順書』と記されている。
「まずは現状の共有を」
彼は部屋全体を見渡した。
「先日提出した氷魔事案を含む温療介入の報告書が、王立魔力医学会にて正式に研究テーマとして採択されました。今後、この領からは追跡データの継続的な提出が求められます」
医師たちの間で小さなどよめきが起きる。
「つまり」と、白髪の院長が口を開いた。
「我々の日常的な診療の中で、温療を『治療手段の一つ』と位置づけ、その記録をきちんと残せ、ということですな」
「その通りです」とダニエル。
「ただし、温めれば何でも良いという話ではない。適応と禁忌を明確にし、現場の負担を最小限に抑えつつ、効果を最大化するための共通手順が必要です。そのたたき台が、本日お配りする暫定版プロトコルです」
冊子が一人一人に配られた。私も一部を受け取り、ページをめくる。
内容は簡潔にまとめられていた。
第一章は「評価」。対象患者の体温、魔力値、意識状態、手足の冷えの有無を記録する。
第二章は「基本介入」。温食、温飲、環境調整、局所加温の四つを組み合わせる。
第三章は「注意すべき症例」。高熱時や急性炎症時など、温めることで悪化し得る状況が列挙されていた。
「これは、公爵夫人にも監修いただいたものです」とダニエル。
「足りない点は多いでしょうが、まずはここから始めたい」
院長が冊子をぱらぱらとめくり、眉を上げた。
「ずいぶん具体的ですな。この『温食介入一号』とは」
「領内の公共食堂で標準化している回復食です」と私は答えた。
「豆と根菜の煮込みを基礎に、干し肉を少量加えたものです。診療所では、具材をさらに簡略化したもので代用できるように調整してあります」
「料理の内容まで決めるのですか」
若い医師が少し驚いたように言う。
「決めた方が、現場は楽になります」
私は微笑んで続けた。
「『温かいもの』という指示だけでは、調理担当者が毎回迷います。材料と量を揃えておけば、効果の比較もしやすい」
看護責任者の一人がうなずいた。
「確かに、はっきり決まっていた方が動きやすいです。患者の家族に説明するときも助かります」
「温飲も同じです」とダニエル。
「ただの湯か、甘味を加えるか、塩分を含めるか。状況に応じて選択肢を示すことで、判断の負担を減らせます」
私は冊子の途中、色付きの紙が挟まれた部分を指で押さえた。
「ここが現場向けの早見表です。『今この患者さんに何をしたらいいのか』を、この一枚で確認できるようにしました」
表は縦軸に患者の状態、横軸に介入の種類が並び、丸印と三角印で優先順位が示されている。
「慢性的な冷えが強い高齢者には、環境調整と温食を優先。急な意識低下があった場合は、まず原因を特定するまで強い加温は避ける。そういった整理です」
医師の一人が小さく息を吐いた。
「正直に申し上げると、また新しい帳票が増えるのかと構えておりました。しかし、この程度の内容なら何とかなりそうです」
別の医師が苦笑まじりに言う。
「問題は、忙しい時間帯ですな。『温食』も『局所加温』も、手が足りないときには後回しになりがちだ」
「だからこそ」と私は言葉を継いだ。
「優先順位を決めました。この表の隅に『最低限』と記した欄があるでしょう」
全員の視線がそちらに集まる。
「どれだけ忙しくても、これだけはやる。逆に言えば、これができていれば、あとは余裕のあるときに足していく。その線引きです」
「温療を万能薬のように扱うつもりはありません」とダニエル。
「従来の治療に加え、確実に効果がある部分だけを標準化する。そのためのプロトコルです」
院長が静かに頷いた。
「分かりました。まずは領都の施療院と軍医局で試験運用を始めましょう。うまく回るようなら、周辺の村の診療所にも広げていく」
「ありがとうございます」と私は頭を下げた。
「運用が始まったら、記録の取り方についても改めて相談させてください。学会への報告だけでなく、こちらの現場改善にも生かせますので」
「それは歓迎しましょう」と院長。
「机上の理屈で終わらせる気はありません。現場で困った点があれば、遠慮なく上げさせてもらいます」
会議室には、わずかな緊張と期待が入り混じった空気が流れていた。
*
午後からは、施療院の講堂で看護者向けの研修が行われた。
温食公会のレオたちが持ち込んだ簡易調理台と大鍋が、講堂の隅に据えられている。
「では、実際にやってみましょう」
私は前に立ち、湯気の立つ鍋を指し示した。
「これは『温食介入一号』の半量版です。手順は同じです」
レオが横で鍋をかき混ぜる。普段とは違う白衣姿の聴衆を前に、少し緊張しているようだったが、動きは安定している。
「配膳の直前にだけ火力を上げ、温度を必ず確認してください。熱すぎると高齢の方や子どもが舌をやけどします」
集まった看護者たちが順に匙を入れ、手の甲に落として温度を確かめる。
「このくらいなら大丈夫そうです」
「もう少しぬるくてもいいかもしれません」
「ここからがプロトコルの本体です」
私は配膳後の手順に移った。
「配った後に必ずやることが三つあります」
一つ、食前と食後の魔力値と脈の簡易測定。
二つ、手足の色と冷えの確認。
三つ、患者自身の感想の記録。
「三つ目も必要ですか」と年配の看護者が尋ねる。
「はい。『楽になった気がする』『眠りやすくなった』といった感想も、重要な指標になります。時間がないときは単語でも構いません」
看護者の一人が笑った。
「『おいしかった』も書いていいのでしょうか」
「ぜひ書いてください。食欲が戻った証拠です」
講堂に少し笑いが広がり、緊張がほぐれる。
次に局所加温の実習に移る。
魔導石を利用した簡易湯たんぽと、布で巻いた温石を並べた。
「直接肌に当てないように必ず布で包みます。置く位置と時間も決めました。この図を見てください」
壁に貼った簡易図には、背中、腹部、足首の位置が示されている。
「一度に二箇所までと決めます。欲張ってあちこち温めようとすると、管理が難しくなりますので」
看護者たちが真剣な顔でメモを取っていく。
実習が一通り終わるころには、最初にあった戸惑いはだいぶ薄れていた。
「どうでしょうか。やれそうですか」
私が問うと、何人かがはっきりと頷いた。
「最初は大変でしょうが、覚えてしまえば流れに組み込めそうです」
「魔力値の記録用紙も、これなら書きやすいです」
私は胸をなで下ろした。
「何よりうれしいのは」と、一人の看護者が口を開いた。
「患者さんのそばにいる時間が、少し増えそうだということです。温食を運んで、温石を置いて、その反応を見る。それ自体が仕事として認められるなら、堂々と付き添えます」
その言葉に、私は深く頭を下げた。
「そのための手順書です。どうか、現場で使いながら育ててください」
*
夕方、施療院の一角で、最初の「温療プロトコル適用症例」が始まった。
対象は、氷魔事案以来、慢性的な冷えと倦怠感に悩まされている中年の男性患者だった。
「本日から新しい手順に沿って経過を見ます」
担当医が説明し、看護者が温食を運ぶ。ダニエルと私は少し離れた場所からその様子を見守った。
「食前の魔力値はこのくらいですね」
看護者が魔導具で測定し、値を記録用紙に書き込む。
患者は湯気の立つ煮込みをゆっくりと口に運び始めた。
「味はいかがですか」
「前より……うまい気がします」
短い答えだが、口元は少し緩んでいた。
食後、再度測定を行う。数値が僅かに上がっている。
「こんな短時間で変わるものなのですか」と担当医が驚く。
「全てが温食の効果とは限りません」とダニエル。
「しかし、少なくとも悪化はしていない。繰り返しの記録で、どの程度の幅で変化するかが見えてくるでしょう」
看護者が手足の色を確認し、「少し赤みが出ました」と報告した。患者本人も「さっきより楽です」と言う。
私はその様子を見ながら、記録用紙の項目に目を走らせた。
「やはり、ここは少し減らした方が良さそうです」
隣で小声で言うと、ダニエルが視線を向けた。
「どこですか」
「一回の介入で書く欄が多すぎます。この部分は週に一度の確認でもよさそうです」
私は用紙の下段を指さした。
「忙しい診療所でこれを毎回埋めるのは現実的ではありません。『最低限』の線をもう一段整理した方がいい」
ダニエルはしばらく考えたあと、頷いた。
「では暫定版一・一としましょう。今日の結果を含めて修正案を作ります」
「お願いします。私も公会側から見た負担を整理しておきます」
*
夜、公爵邸の自室に戻ると、机の上には昼間の会議で配ったのと同じ手順書が置かれていた。端に小さく付箋が貼られている。
『領主用確認済み』
アレス様の字だった。
私はその付箋をそっと外し、手順書の最後の頁に「現場修正案」と書き足した。
新しい用紙を数枚重ね、明日の会議に持って行くつもりでまとめる。
束ね終えたところで、私はペンを置いた。




