第231話 採択の報せ
氷魔との一連の戦闘から、ひと月ほどが過ぎていた。
領内の医療現場はようやく通常に近い落ち着きを取り戻しつつあり、温療も「特別なもの」から「ときどき使われる手段」へと位置を移し始めていた。
その日の午前、私は公会本部の二階にある小部屋で、温療の記録票の様式を整理していた。魔力値と体温、食事の内容と時間。看護担当者が迷わず書き込めるように、欄の順番を入れ替えていると、扉が控えめに叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのはダニエルだった。手には厚みのある紙束がある。
「夫人。少し時間をいただけますか」
「もちろんです。何かありましたか」
彼は私の向かいに腰を下ろし、紙束を机の上に置いた。
「氷魔事案と、これまでの温療症例をまとめました。王立魔力医学会への提出用です」
「……論文ですか」
「はい。正式には研究報告書ですが、向こうの形式に合わせています」
紙束の一枚目には、整った字で題名が記されていた。
『魔力循環障害に対する温療介入の臨床効果
――アレスティード領における氷魔事案と寒冷環境下症例の検討――』
その下に、著者名が並んでいる。
「筆頭著者はあなたですか」
「臨床データをまとめたのは私ですから。次に領軍医療班と温食公会の代表。その後に公爵家医療監修として、レティシア・アレスティード」
自分の名前を見つけて、思わず息を呑んだ。
「本当に、この中に私の名を入れてよいのでしょうか」
「この仕組みを作り、現場を動かしたのはあなたです。監修として名前を連ねない方がおかしい」
言い切られて、返す言葉に迷う。
「内容も、確認していただきたい。医師には通じても、公会の料理人や看護者には伝わりにくい表現が含まれているかもしれません」
「分かりました。拝見します」
私は紙束を受け取り、上から順に目を通し始めた。
*
報告書は、氷魔戦の前後で採取した魔力値の推移から始まり、前線補給所での温食介入群と非介入群の比較へと続いていた。数字の列は無機質だが、その裏側に顔が思い浮かぶ。雪洞でスープを飲んだ兵の顔色。避難民の広間で鍋を囲んだ人々。
「ここの説明です」
私は一箇所で指を止めた。
「『温導質を持たない看護者でも介入効果の再現が可能だった』とありますが、補足が足りません。温導質がないからといって何もできないと思われてしまうかもしれません」
「具体例を追加しましょう。指示書通りに局所加温と温食を行った症例を引用すれば十分です」
「それと、ここ」
私は別の頁を示した。
「『慰安効果の排除について』という小見出しがありますね。温かい食事や毛布が慰めになること自体は否定しない方が良いと思います。その上で、慰安だけでは説明できない数字の変化を示した方が納得してもらえるはずです」
ダニエルはしばらく考え、静かに頷いた。
「確かに。表現を改めましょう。『慰安を含めた複合効果だが、そのうち生理的影響が無視できない』くらいが妥当かもしれません」
「ええ。その方が現場の感覚とも一致します」
紙束にはところどころ、私の知らない専門用語も並んでいた。だが全体として、これは確かに私たちが見てきたものを言葉と数字に変えた記録だった。
「よくここまでまとめましたね」
「氷魔の件で王都の観測局からも問い合わせが来ています。現場の記録をこちらの側から先に出しておく必要があると考えました」
彼は淡々と答える。
「王立魔力医学会は保守的です。『温かい食事で魔力が回復する』などという話を、真面目に取り合ってくれる者ばかりではない」
「それは想像がつきます」
「だからこそ、数字と言葉を整えて渡す。感覚ではなく結果を見せる。採択されれば、温療は正式な研究対象になります」
彼の言う「採択」が何を意味するかは、私にも理解できた。学術会が無視できない分野として認めるということだ。
「提出の期限は」
「次の月初です。今日から三日で修正を終えたい」
「三日ですね。やりましょう」
私は紙束を抱え、机の上の他の書類を脇に寄せた。
*
三日間、私は公会の仕事と並行して報告書の推敲に集中した。
専門用語を欄外に簡単な言葉で説明する。温食公会の現場で使っている語彙に置き換えられるところは置き換える。患者の声を引用する際も、誇張にならない範囲で、そのままの言葉を残した。
ダニエルも睡眠時間を削り、統計部分の検算と図表の整形に追われる。途中でブランドンが呼ばれ、王都の書式に合わせた表紙や提出順の確認を手伝った。
三日目の夜、公会本部の一室で最終確認を終えた。
「これでよろしいでしょうか」
ダニエルが問う。
「ええ。現場の人が読んでも、研究者が読んでも、同じ内容を受け取れるはずです」
私はそう答え、最後の頁に目を落とした。
「監修者欄ですが」
「削る気ですか」
彼が少しだけ険しい顔をした。
「いえ。順番を少し下げられないかと思っただけです」
「ここからあなたの名を外したり、軽く扱ったりすることはしません」
言葉の調子は穏やかだが、譲るつもりがないことは伝わる。
「……分かりました。そのままで」
私が折れると、彼はようやく表情を緩めた。
「では、明日の朝一番で王都へ送ります」
「道中が穏やかでありますように」
私は机の上の封筒を見つめた。そこには、私たちがこの数年積み上げてきたものが詰まっている。
*
報告書を王都に送ってから、半月ほどが過ぎた。
その間にも領内の診療所では温療が続けられ、記録は増え続けていた。新しい症例が出るたびに、私はそれを別の束に綴じていく。
ある日の午後、公会本部にブランドンがやって来た。珍しく息が少し上がっている。
「奥様。王都からの早馬です」
彼の手には王立魔力医学会の紋章が入った封筒があった。私は立ち上がり、すぐに封を切る。
中には、丁寧な字で書かれた文書が入っていた。
『アレスティード領軍医ダニエル・ハルト殿
並びに、温食公会各位
貴殿らの提出した研究報告「魔力循環障害に対する温療介入の臨床効果」について、当会として特例迅速審査の対象とし、検討を行った。
本報告は従来軽視されてきた温的介入を臨床データに基づき検証したものであり、氷魔事案という特殊事例においても有用性を示している。
ついては、本研究を当会の重点長期研究テーマの一つとして正式に採択する。今後、追跡調査と追加報告を求める予定である』
最後に、会長と審査委員長の署名が並んでいる。
「……採択されました」
私がそう言うと、ブランドンは安堵したように肩の力を抜いた。
「特例迅速審査とは、あの会としてはかなりの歩み寄りですな」
「はい。『重点長期研究』という言葉も見えます」
紙には事務的な文言しか書かれていない。それでも、温かい食事と温導が、慰めではなく「研究対象」として扱われていることがはっきりと示されていた。
「ダニエルにもすぐ知らせましょう。きっと喜びます」
「すでに軍医局にも同報が届いているはずです。今夜の会議で詳細を聞けるでしょう」
ブランドンはそう言って頭を下げ、部屋を出て行った。
私は椅子に戻り、改めて文書を読み直した。
これで終わりではない。むしろ、ここからが始まりだ。
王都の学術会が温療を研究テーマとして認めた以上、追跡調査に応えられるだけの現場の記録と仕組みが必要になる。
私は棚から新しい帳簿を取り出し、表紙に「王立魔力医学会提出用 温療追跡記録」と書き込んだ。
その一冊を机の端に置き、次の症例記録に手を伸ばした。




