第229話 限界と支え
戻りの隊は、途切れることなく雪洞に流れ込んだ。
入口の見張りが声を張る。
「後衛小隊、負傷者二名を伴って帰還」
「こちらへ。意識のある方は自分の足で。難しい方は壁際まで運んでください」
私は何度目か分からない同じ言葉を口にした。
フィーが濡れ布で手を拭き、レオが器を渡す。鍋から立つ湯気が、雪洞の天井近くで薄く揺れていた。
「次の鍋、底が見えてきました」
「焦げる前に移しましょう。新しい鍋の方はもう温度が十分です」
「はい」
レオが慣れた手つきで鍋を入れ替える。鉄の擦れる乾いた音がして、すぐにまた具材が沈んだ表面から泡が上がり始めた。
その時だった。
「前線陣地より緊急連絡」
入口近くの兵が通信魔導具を握りしめ、顔を上げた。雪洞の中の動きが一瞬止まる。
「核破壊部隊、黒氷柱の根元に突入。大きな亀裂を確認。あと一撃で崩壊見込み」
胸の奥が強く跳ねた。
「同時に氷魔の暴走を確認。接触による魔力吸収が激化。前衛隊、魔力消耗大」
兵の声に緊張が混じる。
「閣下率いる隊、核至近で最終攻撃中」
そこで、一度だけ魔導具の光が大きく揺れた。
耳に届く声が一度途切れ、次に聞こえてきたのは、荒い息遣いだった。
『……レティシア』
聞き慣れた声だった。
「はい。聞こえています」
私は通信役の兵に合図を送り、自分の声を魔導具に乗せた。
『黒氷柱は、あと一撃で落ちる。だが、こちらの魔力も限界だ』
言葉の切れ目ごとに短い息が挟まる。
『核を壊したら、俺の隊は一度に引く。雪洞を開けておけ。戻りの受け入れを最優先に』
「分かりました。こちらは準備ができています」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
『お前は雪洞を離れるな。外に出るな』
最後だけ、いつも通りの命令の調子だった。
「約束します」
そう答えたところで、通信がふっと薄くなる。
『……すぐ戻る。雪洞を、維持しろ』
途切れ途切れの最後の音が消え、魔導具の光が静まった。
「通信、一時断。前線の魔力値が大きく揺れています」
入口の兵が報告する。
ダニエルが水晶板に目を落とした。
「閣下の隊の魔力値が急激に下がっている。他の隊も同様だが、特に大きい」
「今の状態で核を壊したら、戻ってきた直後が一番危険ですね」
「ああ。雪洞に入った瞬間を逃さず、温導と補給で持ち直させる必要がある」
*
「入口付近の配置を変えます」
私は周囲に声をかけた。
「意識のはっきりしている人が戻ってきた場合は、手前の列で待ってもらってください。自力で歩けない人は、入口からこちらの中央までを優先的に空けましょう」
「了解」
兵たちが壁際の荷物を素早く移動させる。
レオとフィーもそれに合わせて器と鍋の位置を調整した。
「甘塩ブロックはここに。すぐ手が届く場所に置いておきます」
「お願いします。閣下の隊が戻ったら、まずスープと少量の甘塩を」
「はい」
それぞれが短い返事を返し、自分の持ち場に戻る。
雪洞の奥で、焚き火がぱちりと音を立てた。
私は柄杓を握り、鍋の中身を一度ゆっくりと混ぜる。底に沈んだ豆や根菜が浮かび、再びゆっくり沈んでいく。
外から足音が近づく気配がした。
だが最初に入ってきたのは、まだ閣下の隊ではなかった。
「前衛第二小隊、十名帰還。負傷者一名」
「こちらへ。まず手を温めてから座ってください」
私はいつも通りの動作で彼らを迎えた。
顔色は悪いが、意識は全員しっかりしている。
「核の方はどうなっていますか」
スープを受け取った兵に尋ねる。
「閣下が先頭で黒氷柱の根元を斬りつけておられます。何度か亀裂が走り、今は……」
兵は少し言葉を探した。
「黒い氷が内側からきしむ音が聞こえるほどです。氷魔がそれを守ろうとして、周りで暴れている状態で」
「戻ってくる途中で氷魔に追われることは」
「ありましたが、後衛隊が抑えてくれています」
「分かりました。今は休んでください」
兵たちはぐったりと腰を下ろし、黙ってスープを口に運んだ。
その間にも、入口の兵が新たな連絡を受け取る。
「前線陣地より報告。黒氷柱、上部が崩落。根元の亀裂拡大。核の崩壊は時間の問題。ただし周辺の魔力乱流が増大。隊の消耗は極度」
ダニエルが水晶板を見つめたまま、低く息を吐いた。
「閣下の隊の値がここまで落ちたのを見るのは初めてだ。戻り次第、最優先で処置する」
「入口まで迎えに行きたいところですが」
口に出してから、自分でかぶりを振った。
「雪洞を離れないと約束しました」
「そうだな」
ダニエルは短く頷いた。
「入口のすぐ内側までなら問題あるまい。外には出るな。風に当たる必要もない」
「その程度なら許されるでしょう」
私は防寒用の外套の前を締め、フィーに目で合図した。
「しばらくは私の代わりに中央をお願いします。量の指示はレオと相談して決めてください」
「分かりました。奥様、転ばないでくださいね」
「気をつけます」
入口へ向かう足元が、少しだけ心もとなく感じられた。
それでも、転ぶわけにはいかない。
*
雪洞の入口に近づくと、外気がわずかに肌を刺した。
通路の先には薄い白い光が見える。
見張りの兵が私の姿に気づき、姿勢を正した。
「奥様。ここは冷えます」
「大丈夫です。外には出ません。戻ってくる隊の顔が見える場所にいたいだけです」
「承知しました」
兵はそれ以上何も言わず、通路の奥に視線を戻した。
短い沈黙のあと、遠くから複数の足音が近づいてくる。
雪を踏み締める重い音と、金具の触れ合う乾いた音が交じっていた。
「核破壊部隊、帰還開始」
見張りが叫ぶ。
最初に姿を見せたのは、肩を貸し合いながら歩く兵たちだった。
鎧のあちこちに黒い焦げ跡があり、腰の辺りには砕けた黒氷の欠片が付着している。
「自力で歩ける者は雪洞内へ。歩けない者はここで一度止まってください」
私は入口の内側から声を張った。
兵たちはうなずき、通路を進んでくる。
すぐ後ろから、見慣れた背格好が現れた。
「アレス様」
思わず名前が漏れた。
彼はいつもより足取りが重い。
外套の肩口は黒く焼け、手袋の表面には細かいひびが入っていた。
「戻った」
短い言葉だったが、声はかすれている。
通路の中ほどで一瞬ふらついた。
「中まで。ここでは寒すぎます」
「自分で歩ける」
そう言ったものの、足元がおぼつかない。
私は一歩前に出て、外気に触れないぎりぎりの場所で彼の腕を取った。
「雪洞の境目までは支えさせてください」
彼はわずかに眉をひそめたが、抵抗はしなかった。
境目を越えた瞬間、彼の体から緊張が少し抜けるのが伝わる。
そこでもう一度足がもつれ、私は慌てて体を支えた。
「椅子を」
私は入口近くの兵に声をかけた。
用意しておいた木椅子がすぐそばに運ばれ、アレス様はそこに腰を下ろした。
「スープを持ってきます。すぐです」
後ろから駆けてきたフィーが器を差し出し、レオが鍋からスープを注ぐ。
「閣下。熱いのでお気をつけください」
器が彼の手に渡った瞬間、私はその上から自分の手を重ねた。
「失礼します。少しだけ」
温導質に意識を向ける。
彼の指先から腕へと、冷えた魔力の流れが伝わってきた。
乱れているというより、力そのものが底をつきかけている。
「飲みながらで構いません。少しだけ巡りを整えます」
「……分かった」
彼は器を唇に運び、一口含んだ。
熱が喉を通る感覚に合わせるように、私はゆっくりと魔力を押し出し、彼の内側に染み込ませる。
しばらくして、彼の肩から余計な力が少し抜けた。
「どうですか」
「まだ重いが、さっきよりはましだ」
短い答えだったが、声にわずかな張りが戻っていた。
横でダニエルが魔導具を構える。
「手首を」
アレス様が器を持たない方の腕を差し出す。
水晶板の光が数字を映し、ダニエルの表情が少し和らいだ。
「底は抜けたが、落ち続けてはいない。ぎりぎりだが持ち直しつつある。もう一口飲めば、危険域は脱する」
「だそうです」
私がそう言うと、アレス様は小さく息を吐いた。
「なら、もう一口飲むしかないな」
彼は器を傾け、二口目をゆっくりと喉に流し込んだ。
*
「核はどうなりましたか」
少し落ち着いたところで、私は改めて尋ねた。
「粉砕した。崩落した上部ごと叩き割った。残っているのは、散った黒氷の残骸だけだ」
彼は短く答える。
「氷魔は」
「核への供給が途絶えたせいか、動きが一気に鈍くなった。完全に消えたわけではないが、後衛と別働隊で十分対処可能な程度だ」
言葉ごとに息が少し上がる。
それでも、報告を途中で切ることはなかった。
「前線の指揮は」
「軍務長官に引き継いだ。俺はここで全体の撤収を見ながら休む」
そこで初めて、彼はわずかに口元を緩めた。
「満足か」
「はい」
思わず即答した。
「無茶をしたのは事実ですが、今回はきちんと戻ってきてくださったので」
「前回は戻らなかったとでも言うつもりか」
「意識の話です」
私は少しだけ視線を逸らした。
「あなたもそうですが、私も前回は無茶をしました。今回は約束通り、ここから外には出ていません」
「その通りだ」
彼は少しだけ真面目な顔になる。
「俺も、限界を越える前に戻った。互いに少しは学習したということだろう」
「そう受け取っておきます」
わずかなやり取りだったが、胸の奥の硬さが少し緩んだ。
*
「閣下」
入口の兵が近づき、敬礼した。
「後衛各隊より連絡。氷魔の残存個体を順次殲滅中。核付近の乱流は収まりつつあります。負傷者の第一陣はこの雪洞に集結させるとのことです」
「分かった」
アレス様は短く答え、私に視線を向けた。
「ここから先は、お前の出番が続く。俺は邪魔にならないよう、この椅子から指示を出す」
「邪魔だなんて思いません」
私は首を振った。
「でも、立ち上がろうとしたら止めます」
「そこまで言うか」
「言います」
彼は小さく息を吐き、観念したように背もたれに体を預けた。ダニエルもそれを確認し、わずかに頷く。
「魔力が安定するまで、ここから動くな。最低でもスープをもう一杯分は雪洞の中で過ごしてもらう」
「分かった」
素直な返事だった。
私は立ち上がり、フィーとレオのいる中央へ視線を向ける。
新たな鍋から立ち上る湯気が、雪洞の空気に溶け込んでいた。
「奥様。次の隊が列を作り始めています」
「すぐ行きます」
入口近くの様子を一度だけ確かめる。
椅子に腰を下ろしたアレス様は、まだ顔色こそ悪いものの、先ほどより目に力が戻っていた。
私はそれを確認してから、鍋のそばへ戻った。
柄杓を手に取り、新しいスープを一杯よそう。




