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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第22話 噂師の罠と北方の心

 温かいスフレがもたらした小さな熱狂は、まるで雪解け水のように、サロンの凍てついた空気をじんわりと溶かしていた。あちこちで「初めての食感だわ」「家でも作れないかしら」という囁きが交わされ、貴婦人たちの頬は、暖炉の火のせいだけではない、確かな熱を帯びて紅潮している。

 オルブライト子爵夫人は、不機嫌を隠そうともせず腕を組み、窓の外に視線を投げている。けれど、彼女の孤立は明らかだった。人の本能的な欲求の前では、いかに厳格な礼法といえども、その絶対性を保つことは難しい。

 私は、空になった陶器の器を静かに見つめていた。

 これは、ほんの小さな一歩。けれど、確かな手応えがあった。この冷たいだけの世界に、別の価値観を提示することは可能なのだと。

 しかし、本当の戦いはここからだった。

 物理的な美味しさで人の心は動かせても、根深く絡みついた偏見や悪意は、それだけでは解きほぐせない。

 案の定、それは音もなく私の背後から忍び寄ってきた。

「まあ、素晴らしいお手並みですこと、アレスティード公爵夫人様」

 ねっとりと甘く、しかしどこか爬虫類を思わせる冷たさを秘めた声。

 振り返ると、そこに立っていたのはヴァロワ男爵夫人だった。豊満な体に、流行遅れの派手なドレスを纏い、指にはこれみよがしに宝石がいくつも輝いている。彼女こそ、この社交界におけるあらゆる噂の震源地。その唇から紡がれる言葉は、蜜のように甘く、毒のように人の心を蝕むと言われている。

 彼女の周りには、取り巻きの貴婦人たちが数人、まるで女王蜂に仕える働き蜂のように控えていた。サロンのざわめきが、すうっと潮が引くように静かになる。誰もが、次なる嵐の到来を予感していた。

「男爵夫人。お口に合いましたようで、何よりですわ」

 私は平静を装い、微笑みを返す。

 男爵夫人は、くすくすと喉を鳴らして笑った。その笑い声が、なぜかひどく耳障りだった。

「ええ、それはもう。驚きましたわ。まるで、南の陽気な市場にでも迷い込んだかのようで」

 彼女の言葉は、一見すると褒めているようで、その実、私の出自とやり方を「北の格式高い社交界にはふさわしくない、品のないもの」だと暗に貶めている。周囲の取り巻きたちが、扇で口元を隠して忍び笑いを漏らした。

 私は動じない。ここで感情的になったら、相手の思う壺だ。

「お楽しみいただけたのなら、幸いです」

 私の短い返答に、男爵夫人はさらに笑みを深めた。蛇が獲物を見つけた時の、あの嫌な笑みだ。彼女は、私の隣に置かれていた椅子に、許可もなくゆったりと腰を下ろした。そして、身を乗り出し、私にしか聞こえないような声で、しかしその場の誰もが聞き耳を立てていることを計算し尽くした声量で、囁いた。

「それで、お教えいただきたいのですけれど、公爵夫人様」

 彼女の瞳が、きらりと光る。

「あなたのその素晴らしいおもてなしは、つまり、わたくしたちがこれまで大切に守ってきた伝統が、全て間違っていると、そう仰りたいのかしら?」

 来た。

 それは、完璧な罠だった。



 サロンの空気が、先ほどよりもさらに冷たく、鋭く凍りついた。誰もが息を殺し、私の答えを待っている。

 これは、悪質な二者択一だ。

 もし「はい、そうです」と肯定すれば、私はこの地の伝統と文化を否定する、傲慢で無知な女ということになる。社交界から排斥されるのは間違いない。

 もし「いいえ、そんなことはありません」と否定すれば、先ほどの私の行動は、ただの気まぐれか、あるいは礼法を知らない無作法な振る舞いであったと認めることになる。私の改革は、その拠り所を全て失うだろう。

 どちらに転んでも、待っているのは破滅だ。

 ヴァロワ男爵夫人は、蜘蛛の巣にかかった蝶を見るような、残酷な喜びに満ちた目で私を見つめている。

 私は、ゆっくりと紅茶のカップを手に取った。もうすっかりぬるくなってしまっている。そのぬるい液体を一口だけ飲み、心を落ち着かせた。

 実家で、継母や異母妹から、何度も同じような罠にかけられたことを思い出す。「お姉様は我慢強いから、これでいいわよね?」「あなたのためを思って言っているのよ」。あの頃の私は、いつも黙って頷き、全てを飲み込み、自分を殺すことでその場をやり過ごしてきた。

 もう、あの頃の私ではない。

 我慢はしない。誰かが作った理不尽な二択の上で、踊らされるつもりなどない。

 私はカップをソーサーに静かに戻した。カチャリ、という小さな音が、やけに大きく響く。

 そして、ヴァロワ男爵夫人の目をまっすぐに見つめ返し、穏やかに、しかしはっきりと通る声で言った。

「伝統は、先人たちがこの厳しい土地で生き抜くために築き上げた、尊い知恵の結晶ですわ、男爵夫人。わたくしのような者が、それを間違っているなどと、どうして言えましょう」

 まずは、相手の土俵を肯定する。

 男爵夫人の眉が、意外そうにぴくりと動いた。周囲の貴婦人たちの間にも、安堵と失望が入り混じったような、かすかな動揺が広がる。私が早々に白旗を揚げたと、彼女たちは思ったのだろう。

 だが、私は言葉を続ける。

「ですが」

 その一言で、サロンの空気が再び張り詰めた。

「お尋ねいたします。もてなしの心に、形は一つしかないのでしょうか」

 私は、男爵夫人の背後にある、大きな窓に視線を移した。ガラスの向こうには、どこまでも続く真っ白な雪景色が広がっている。灰色の空から、粉雪が静かに舞い落ちていた。

 その景色を眺めながら、私は語りかけるように続けた。

「想像してごらんなさいませ。この凍えるような吹雪の中を、大切な客人が、あなたを訪ねてやってきます。冷え切った体で、かじかんだ手をこすり合わせながら、ようやくあなたの屋敷の扉を叩くのです」

 私の言葉は、抽象的な理念の論争ではない。誰もが経験し、誰もが共感できる、具体的な情景だ。貴婦人たちの何人かが、無意識に自分の腕をさすっているのが見えた。

「その時、あなたは客人に、完璧に冷やされたお菓子と、ぬるいお茶をお出しになりますか? それとも」

 私は、窓の景色から、再び男爵夫人の顔に視線を戻した。

「まずは、暖炉のそばの席を勧め、湯気の立つ温かい一杯を差し出し、『ようこそ、よくいらっしゃいました』と、その凍えた体を温めてあげるのではないでしょうか」

 私の問いかけに、誰も答えない。

 答える必要がないからだ。答えは、皆の心の中にある。

「冷たい料理で客人を迎える厳格な礼法も、確かにこの北の地が育んだ一つの伝統でしょう。ですが、寒い日に訪れた人を、温かいもので迎える。それもまた、この厳しい自然と共に生きてきた、わたくしたち北の民が、血と心で受け継いできた、もう一つの、そして何より大切な『もてなしの心』ではないかしら」

 伝統を否定するのではない。

 伝統には、複数の側面があるのだと提示する。

 冷製主義という「形」の伝統と、人を思いやる「心」の伝統。どちらが、より本質的なものか。

 私は、彼女たちがよって立つ「伝統」という名の足場を、より深く、より根源的な場所から揺さぶったのだ。



 ヴァロワ男爵夫人は、言葉を失っていた。

 彼女の顔からは、先ほどの余裕綽々の笑みは消え失せ、代わりに屈辱と怒りが浮かんでいる。何か反論しようと唇を震わせるが、言葉が出てこない。

 なぜなら、私の言葉を否定することは、北の地で生きる者としての、根源的な優しさや思いやりを否定することに繋がってしまうからだ。それは、彼女自身がこれまで築き上げてきた「良き貴婦人」という仮面を、自ら引き剥がす行為に他ならない。

 周囲の貴婦人たちの反応は、様々だった。

 はっとしたように目を見開く者。深く考え込むように俯く者。そして何人かは、静かに、しかしはっきりと頷いていた。

 私の言葉は、彼女たちが無意識のうちに「そういうものだから」と受け入れてきた固定観念に、小さな、しかし確かな風穴を開けたのだ。

 やがて、男爵夫人は乱暴に椅子から立ち上がった。

「……詭弁ですわ!」

 それだけを絞り出すように言うと、彼女は取り巻きたちを睨みつけ、足早にその場を去っていった。その背中は、勝利者のそれとはほど遠い、敗走者の姿だった。

 嵐が去り、サロンには再び穏やかな、しかし以前とは質の違う空気が戻ってきた。

 私は、誰にともなく微笑みかけると、再びぬるくなった紅茶を、今度はどこか美味しく感じながら、ゆっくりと口に含んだ。

 ふと、サロンの隅の席に視線を向ける。

 そこには、先ほどからずっと黙ってこちらの様子を観察していた、冷笑的な美貌の令嬢、エレオノーラ伯爵令嬢が座っていた。

 目が合うと、彼女は興味深そうに片方の眉を上げた。そして、ほんの一瞬だけ、その薄い唇の端が、かすかに持ち上がったように見えた。

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