第228話 氷魔の巣
日が完全に落ちた。雪洞の入口近くに置かれた魔導灯だけが、内と外の境目をかろうじて示している。
核破壊部隊が雪洞を出ていったのは、その少し前だった。
「これより、黒氷柱を目標とした突撃を開始する」
軍務長官の声が入口から響き、続いて重い足音が遠ざかっていった。
アレス様は最後尾付近にいて、一度だけこちらを振り返った。
「ここを守れ。撤退路の一つは、この雪洞だ」
「分かっています」
そう答えると、彼は軽く顎を引き、そのまま外の闇へと消えた。
雪洞の中には、補給隊と後方支援の兵だけが残された。
鍋は二つとも火にかけてある。保温槽の魔導石は昼から休みなく働き続けていた。
「これからしばらくは、行きと戻りの二方向から兵が来ます」
私は周囲を見渡した。
「突撃前に巡ってくる隊は、胃に負担をかけない程度の量で。戻ってきた隊には、様子を見ながら二杯目まで許可します」
「了解しました」
レオが手元の表を確認しながら答える。
「甘塩ブロックは、戻りの兵を優先しますか」
「はい。魔力が大きく削られているはずです。塩分と糖分を早めに入れておきましょう」
それぞれが持ち場に散り、雪洞の中に静かな緊張が満ちた。
*
最初にやって来たのは、突撃前最後の補給を受ける隊だった。
「前衛小隊、十名入ります」
見張り役の声とともに、兵たちが雪洞に入ってくる。
外気で冷えた鎧がわずかにきしみ、吐息が白く揺れた。
「手を洗ってから列に並んでください」
私はいつも通りの手順を繰り返した。
「量は普段より少なめですが、その分塩を少し強くしてあります。飲み終えたら五分だけ腰を下ろしてください」
レオたちが器を渡し、鍋からスープをよそう。
兵たちは無言で受け取り、慎重に口をつけた。
短い沈黙のあと、誰かがほっと息を吐く。
「助かる」
その一言で、周囲の空気が少し柔らいだ。
「今日の分で、これが一番うまい」
別の兵が冗談めかして言うと、狭い雪洞の中に小さな笑いが生まれた。
「戻ってきても用意しています。必ずここを通ってください」
私がそう告げると、彼らは真面目な顔に戻り、一人ずつうなずいた。
「閣下もここを通られますか」
一人がそっと尋ねる。
「はい。先ほどと同じです。例外はありません」
その答えに、少しだけ安堵の色が見えた。
五分を告げると兵たちは立ち上がり、器を返して出口へ向かった。
外の闇が再び雪洞の入口を塞ぐ。
*
突撃前の補給を終えると、雪洞の中はいったん静かになった。
「ここからは戻りを待つ段階ですね」
フィーが鍋の蓋を拭きながら小さく言う。
「ええ。でも静かに待つだけではありません」
私はダニエルの方を向いた。
「現場からの報告が入り次第、配分を変えます。測定の準備は大丈夫ですか」
「問題ない」
ダニエルは魔導具の水晶板を持ち上げた。
「雪洞内での魔力密度と、戻ってくる兵の値を随時記録する。変化があればすぐに伝える」
「お願いします」
そうしているうちに、入口近くの兵が通信魔導具に手を当てた。
「前線陣地より連絡。核破壊部隊、黒氷柱を視認。周辺に氷魔多数」
雪洞の中の視線が一斉にそちらへ向く。
「詳細、続きます」
兵は耳を澄ませ、途切れ途切れの声を拾った。
「視界は悪化。風向きが変化。影状の氷魔十体以上を確認。攻撃は主に接触と冷気によるもの。破砕は有効だが、欠片が再結集を試みる様子」
「やはり核から供給を受けているようですな」
ダニエルが低く言う。
「核を壊さない限り、数を減らしても効果は薄い」
私の手が自然と鍋の柄杓を握り直していた。
「戻りの隊は、予定より早くなるかもしれません」
「そうだな」
ダニエルが頷く。
「魔力を多く消耗した者ほど、先に下がってくるはずだ。その受け皿がここになる」
「濃度を一段階上げます。塩と糖を増やしてください」
私はレオに声をかけた。
「了解です。次の鍋からですね」
「ええ。最初に戻る隊には、必ずこの濃度のものを出しましょう」
*
程なくして、外から慌ただしい足音が近づいてきた。
「第一陣、負傷者を含む。十名入る」
見張り役の声が少し高い。
入口から現れた兵たちは、突撃前の者と様子がまるで違っていた。
鎧に細かなひびが入り、外套の端が白くこわばっている。顔色は悪く、唇が青い者もいる。
「こちらへ。順番に手を温めてから座ってください」
私は自分でも驚くほど落ち着いた声でそう告げた。
「立ったまま飲むとこぼします。座って、深呼吸をしてから」
フィーが濡れ布で手を拭い、レオが器を配る。
鍋から注がれた新しいスープは、さっきよりも濃い香りがした。
一人の兵が器を受け取りながら、ふらついて膝をつきかける。
「支えます」
私はすぐ隣に膝をつき、器だけはしっかりと支えた。
「少しずつで構いません。口を湿らせるところから始めてください」
兵はわずかに頷き、小さく一口飲んだ。
喉が上下し、しばらくしてから息を吐く。
「……生き返る」
かすれた声だったが、はっきりとそう言った。
その言葉を合図のように、周囲の兵もスープを口に運び始める。
雪洞の空気が一段と温度を増したように感じられた。
「魔力値を測る」
ダニエルが数名の手首に魔導具を当てる。
「到着時は危険域ぎりぎりだったが、スープを飲んで数分でわずかに上向き始めている。体温も少し戻った」
「この濃度で続けますか」
「ああ。ただし二杯目を望む者には慎重に。胃腸の状態を確認しろ。無理に流し込めば逆効果だ」
「分かりました」
私はフィーと視線を交わし、頷き合った。
「戻りの隊が増えたら、こちらで一段階仕分けをしましょう。意識がしっかりしている人と、そうでない人とで列を分けます」
「了解です」
フィーが素早く雪洞入口近くの空間を整理し、仮の仕切りを作った。
*
第一陣が出ていき、二陣、三陣と続く。
入ってくる者の顔には、疲労だけでなく、どこか焦りに似たものが混じっていた。
「氷魔の数が多いのですか」
器を返してきた兵に、私は小声で尋ねた。
「はい。斬っても砕いても、黒い欠片が地面を這い、また形を取り戻そうとします」
兵は眉根を寄せた。
「閣下が前に出てくださいましたが、核に近づくほど、空気そのものが重くなるようで」
言葉を続けようとして、彼はこめかみに手を当てた。
「大丈夫ですか」
「少し頭が痛いだけです。スープのおかげで、さっきよりは楽になりました」
「それならよかったです」
私は彼を送り出し、すぐ次の鍋の様子を確認する。
雪洞の中は絶えず人が出入りし、鍋の中身は目に見えて減っていく。
レオが焦げ付きが出ないように底をかき、補充のタイミングを計っていた。
「奥様。甘塩ブロックの残りは三箱です」
「分かりました。次の隊までは、戻りの兵だけに渡してください。突撃前の補給には回さなくて構いません」
「了解です」
判断を一つ一つ重ねていくうちに、時間の感覚が薄れていった。
*
雪洞の奥で、ダニエルがじっと魔導具を見つめていた。
「先生。何かありましたか」
「前線付近の魔力密度が、先ほどから不規則に跳ねている」
彼は水晶板に浮かぶ値を指で示した。
「氷魔の動きだけでは説明がつかない変化だ。たぶん、黒氷柱そのものに亀裂が入り始めている」
「核に攻撃が届いているということですね」
「ああ。だが同時に、周辺への負荷も増している。突撃部隊の消耗は想定より大きいはずだ」
その言葉とほぼ同時に、入口近くの兵が通信魔導具に手を当てた。
「前線陣地より緊急連絡」
雪洞内の空気が一気に張り詰める。
「黒氷柱の根元に大きな亀裂。氷魔の動きが乱れ、攻撃が激化。核破壊部隊、最終突入段階に入る」
兵の声がわずかに震えた。
「閣下率いる隊は、核のすぐ手前。魔力消耗大」
魔導具の光が一瞬揺らぎ、通信が途切れ途切れになる。
「……連絡が不安定です」
兵が眉をひそめた。
私は鍋から柄杓を引き上げ、保温槽の温度を確かめた。
指先に伝わる熱の感触はまだ十分だ。
「戻りの受け入れを増やします」
私は声を上げ、雪洞内全体に響くようにした。
「今からしばらくは、説明ができる状態の兵は入口近くで待機させてください。意識が曖昧な人を優先してこちらへ回します」
「了解」
見張り役の兵が頷き、通路の奥へと駆けていった。
「鍋の火を少し強めて。次の鍋に早めに火を通します」
「はい」
レオが焚き火の薪を調整し、火勢を上げる。
炎の音がわずかに強くなり、鍋の縁がかすかに鳴った。
*
やがて、短い叫び声とともに新たな一団が雪洞に飛び込んできた。
「負傷者多数。自力歩行困難者四名」
声の調子から、さきほどまでの隊より緊迫しているのが分かる。
「こちらへ。座れない人は壁にもたれさせてください」
私はフィーと共に駆け寄った。
膝から崩れ落ちるように座り込んだ兵の外套は、ところどころ黒く焦げていた。
指先と頬が白く、血の気が薄い。
「意識はありますか」
「……少し」
かすれた声が返ってくる。
「スープを飲めるか」
ダニエルが問い、兵の喉の動きを確かめた。
「少量ならいけるはずだ」
「分かりました」
私は器に半量ほどスープを注ぎ、兵の唇にそっと近づけた。
「一気に飲もうとしないでください。舌に乗せるところから始めましょう」
兵はわずかに首を傾け、舌先を動かした。
数度繰り返したところで、喉がゆっくりと動く。
「どうですか」
「……温かい」
その一言に、雪洞内の空気が少しだけ緩んだ。
「魔力値は」
ダニエルがすぐに測定器を当てる。
「底を打っているが、完全に途切れてはいない。今ならまだ持ち直せる」
彼の判断に、私は深く頷いた。
「この隊が一巡したら、鍋の中身を入れ替えます。焦げ付きが出る前に次の鍋に移りましょう」
「了解です」
レオが鍋の様子を見ながら返事をする。
*
雪洞の入口では、出入りする兵の声と足音が途切れなかった。
誰かが短く笑い、次の瞬間にはうめき声が響く。
そのたびに誰かが走り、誰かが支え、誰かが鍋の中身を確認した。
私は何度も時間を確かめようとして、途中でやめた。
今必要なのは刻限の把握ではなく、目の前の鍋と兵の状態を途切れさせないことだ。
ダニエルがふと私の隣に立つ。
「息は整っているか」
「何とか。先生の方こそ休めていますか」
「座る暇はないが、立っているだけなら問題ない」
彼は短くそう言い、水晶板を指で叩いた。
「前線の値が一段変わった。氷魔の密度が急激に落ちている」
「核に何かありましたか」
「おそらく、黒氷柱に大きなダメージが入ったのだろう。だが同時に、局所的な魔力の揺れが異常に大きい」
そこへ、通信魔導具を握った兵が声を上げた。
「前線陣地より報告」
雪洞内が再び静まり返る。
「黒氷柱、上部崩落。根元に大きな亀裂。氷魔の一部が暴走状態。核破壊部隊、最終攻撃継続中」
兵が一瞬言葉を切り、耳を澄ます。
「閣下の隊、核の至近へ。魔力消耗きわめて大。これより後退路を段階的に確保する。雪洞補給所は第一受け入れ地点とする」
私は短く息を吸った。
「分かりました、とお伝えください。こちらはいつでも受け入れ可能です」
兵が頷き、短く返事を送る。
私は鍋の柄杓を握り直し、雪洞の入口付近まで歩み寄った。
「ここから先は、戻りの流れが一気に増えます」
入口近くに控える兵たちに声をかける。
「意識がある人には自力でここまで来てもらいましょう。難しい人は、せめて入口付近までは運んでください。そこから先は私たちが受け取ります」
「了解」
兵たちが持ち場を確認し合う。
私は一度だけ深呼吸した。
「フィー、レオ。鍋の位置はこのままです。器の列を少し広げてください」
「はい」
「甘塩ブロックは出しやすい場所に置き直します」
それぞれが素早く動き、雪洞内の流れが微調整されていく。
通路の先から、再び足音が聞こえ始めた。
「戻りの隊が見えました」
見張り役の声が響く。
私は入口の少し手前で足を止め、これから雪洞に入ってくる兵たちを迎える準備を整えた。




