第226話 決戦前夜
核破壊部隊の編成方針が固まってから、準備は一気に加速した。
三日後の朝、公爵邸の一室で軍務長官から最終の名簿を受け取る。厚手の紙に、選抜された兵の名が整然と並んでいた。
「中隊一個。実数百二十。歩兵主体、魔導兵と工兵を少数ずつ混ぜている」
軍務長官は事務的な口調で説明を続ける。
「氷魔との交戦経験者を半数以上含めた。残りは寒冷地に慣れた者と、魔力循環の安定している者から選抜してある」
「循環の安定は、ダニエルが見たのですね」
「ああ。体力も魔力も中途半半端な者は外した。踏み込みの前に倒れられては困るからな」
私は名簿の末尾まで目を通し、そっと息を吐いた。
「この人たちが、黒氷柱まで行くのですね」
「そういうことだ」
軍務長官が頷き、紙束の端を指で叩いた。
「そして率いるのは閣下だ」
その一言で、胸の奥が少し強く脈打った。
「アレス様が、自ら先頭に立つのですか」
「止めても聞かんよ。境界を守る仕事を他人に押しつける性分ではない」
予想していなかったわけではない。それでも、はっきり言葉にされると重さが違った。
「この名簿は補給計画にも必要だろう。君に渡しておく」
「ありがとうございます。人数に合わせて割り付けを調整します」
受け取った紙束を抱え、私は一度執務室を後にした。
*
公爵邸の廊下を曲がったところで、背後から名前を呼ばれた。
「レティシア」
振り返ると、アレス様が立っていた。軍装ではないが、いつもより厚手の上着を着ている。
「名簿は見たか」
「はい。先ほど軍務長官から」
「話がある。来い」
短くそう言って、彼は自室ではなく戦略室へ向かう。私は黙ってその後を追った。
戦略室には誰もおらず、北境の地図だけが広げられたままになっていた。
「核破壊部隊の編成と出発日は決まった」
扉が閉まると同時に、アレス様が本題に入る。
「明後日の日の出とともに北境へ向かう。前線陣地経由で、雪洞補給所と前方雪洞を設営しながら進む」
「思っていたより早いですね」
「黒氷柱の成長速度が分からない。こちらの準備が整った時点で動くのが一番ましだ」
理屈は理解できる。時間をかけるほど、向こうも変質していく可能性がある。
「一つ確認する」
アレス様がこちらを見る。
「前線まで同行するか」
問いの内容は、あらかじめ覚悟していたものだった。
「前線というのは、雪洞補給所までのことですか」
「ああ。雪洞の内側で補給と魔力観測に専念する。核への突撃には同行しない。それが条件だ」
彼は淡々と告げる。
「お前が行けば、温導質を使った調整ができる。突撃前後の兵の戻りは段違いになるだろう」
「でも危険です」
口に出したのは自分に対しての言葉でもあった。
「大氷期のあと、私は高熱を出して倒れました。今回も前線に出れば、また同じことになりかねません」
「だから制限をつける」
アレス様は地図の一か所を指差した。前線陣地と黒氷柱の中間に描かれた印だ。
「前線補給所から一段前のこの雪洞まで。そこから先には出るな。雪洞の中での仕事以外はしない。それを守れるか」
「守ろうとします」
意地のような言葉が少し混じった。彼は目を細める。
「守るかどうかを聞いている」
「守ります」
言い直すと、彼は短く頷いた。
「ならば俺としては連れて行く方がいい。現場で判断が必要な時、間に合わないところから指示を飛ばしても意味がない」
その言い方は冷静だが、私の意思を尊重する余地も含んでいる。
「行きたいか、行きたくないか。正直に言え」
「役に立てるなら行きたいです」
はっきり答えると、胸の奥の揺れが少し整った。
「怖くないと言えば嘘です。でも、今回の作戦は温食と補給を前提に組んだものです。現地で責任を取る方が筋が通ると思います」
「分かった」
アレス様は迷いなく結論を出した。
「前線まで同行を許可する。雪洞補給所と前方雪洞の運営指揮を任せる。突撃には関わるな」
「はい」
返事をすると、彼はわずかに視線をそらし、少しだけ声を落とした。
「前回のように倒れたら、その場で強制的に撤退させる」
「それは困ります」
「困ってもやる」
淡々とした口調だったが、言葉の奥に心配が透ける。
「私は私の領分を守ります。アレス様は黒氷柱をお願いします」
「それぞれの仕事をするだけだ」
彼はそう言って、地図を畳み始めた。
「準備に戻れ。出発まで二日しかない」
「分かりました」
私は礼をして戦略室を出た。胸の中に残った緊張は大きいが、やることははっきりしている。
*
公会本部に戻ると、既に荷造りの準備が始まっていた。
大鍋用の鉄枠、魔導石入りの保温槽、木箱に詰めた濃縮スープの素。廊下の片側に積み上げられた荷が、遠征の規模を物語っている。
「奥様」
フィーが駆け寄ってきた。単なる焦りではなく、覚悟を決めた顔をしている。
「前線に行かれると聞きました。本当ですか」
「雪洞の中までです。氷魔と直接戦うわけではありません」
「そういう問題ではありません」
フィーは唇をかみ、しかし声の調子は落とさなかった。
「大氷期のときに倒れたばかりです。今度はもっと危ない場所です。本当に大丈夫なのですか」
「無茶はしないと約束しました」
私は彼女の目をまっすぐ見る。
「雪洞の外には出ません。体調がおかしいと感じたら、その時点で役割を他の人に渡します」
「他の人に?」
「レオや他の補給隊員たちがいます。彼らなら、私が組んだ仕組みをそのまま回せます」
フィーは少しだけ視線を伏せた。
「レオも一緒に行くのですね」
「はい。補給所の運営責任者として同行してもらいます。ここには別の班を残します」
フィーは短く息を吐き、顔を上げた。
「分かりました。止められないと分かっていても、言わずにはいられませんでした」
「言ってくれてありがとう」
私は微笑んでみせる。
「だからこそ、私も最初から任せます。途中で倒れて全てを手放すのは、前より悪い形ですから」
フィーの表情が少しだけ崩れた。
「ではこちらは後方を固めます。領都と既存の公共食堂の運営は私が責任を持ちます」
「頼りにしています」
言葉だけでなく、本心だった。今回私が前線に出られるのは、後ろを任せられる人がいるからだ。
*
荷造りの確認に回ると、レオが大鍋の横で帳簿を片手に指示を飛ばしていた。
「その箱は前方雪洞行きです。こっちは前線補給所まで。印を間違えないでください」
慣れない軍の補給係に、てきぱきと指示を出している。視線も声も落ち着いていた。
「レオ」
呼びかけると、彼は振り返り、姿勢を正した。
「奥様。前線行きの荷は半分以上積み終わりました。濃縮スープと甘塩ブロックは予定数を確保しています」
「ありがとう。雪洞での段取りは頭に入っていますか」
「はい。入れ替え制で十人ずつ。滞在時間は一人十分まで。配膳の記録を残し、魔力値の低い兵を優先する」
すらすらと答えが返ってくる。
「奥様がいなくても回せるように、と言われましたから、手順書も作りました」
彼は一冊の小さな冊子を差し出した。
「素晴らしいです」
中身をざっと見る。配膳順、鍋の火加減、衛生管理の要点が簡潔にまとめられていた。
「これなら誰が見ても困りません」
「奥様のやり方を、できるだけそのまま移しました。細かいところは現地で修正します」
「よろしくお願いします」
そう言うと、レオは一瞬迷った顔をしてから言葉を続けた。
「奥様」
「何でしょう」
「氷魔は怖いです。でも温かい食事が武器になると分かった今、後ろで鍋だけ振っているより前に出た方がいいと思いました」
彼は胸元の公会章を軽く指先で押さえた。
「だから行きます。奥様が倒れたら支えます。倒れないようにもさせます」
「心強いです」
冗談ではない声音だった。私はうなずき、彼に帳簿を返した。
*
日が傾き始めるころ、軍からの使者が再び公会本部を訪れた。
「前線への出発隊列と時間が確定しました。明後日早朝、第三刻。温食公会補給隊は本隊の二刻前に先行し、前線陣地で待機してください」
「了解しました」
私は使者から受け取った書類に目を通し、必要な項目に署名を入れた。
出発まで、残り一日と少し。
その夜、公会本部の静かな一室で、私は改めて補給計画の紙束を並べた。
前線補給所の鍋の数、前方雪洞での一回あたりの配膳量、核破壊部隊の出入りに合わせた時間割。数字と名前を追いながら、抜けがないかを確認していく。
「ここを一人減らして、余剰を予備鍋に回した方がいいかもしれない」
小さく独り言を漏らし、配分表を書き換える。
すべて終えたころには、外はすっかり暗くなっていた。
机の上に積んだ書類を一まとめにして紐でくくる。出発の朝、そのまま持っていけるように用意しておく必要がある。
私は束を両手で持ち上げ、明日の準備はここまでと心の中で区切りをつけた。




