第225話 黒氷の核
第二次偵察隊が前線陣地に戻ってきた。
雪原から引き揚げてきた彼らは、自力で歩いてはいるものの、足取りが重い。外傷は少ないが、前回の偵察隊と同じ独特の疲労が顔に出ている。
「雪洞に通してくれ」
アレス様の指示で、偵察隊の主だった者たちはそのまま前線補給所に案内された。私はダニエルと共に雪洞の入口で待つ。
中に入った途端、外の冷気と、鍋から立ち上る湯気の差で視界が少し白んだ。
「ご苦労さまです。まず座ってスープを」
レオたちが手早く器を配る。兵たちがそれを受け取り、いくらか呼吸を整えたところで、隊長格の男が前に出た。
「第二次偵察隊隊長、報告いたします」
「聞こう」
アレス様の声に、男は短くうなずいた。
「黒氷の分布を再確認しつつ、前回より深く氷原中央へ接近しました。視界が開けた地点で、巨大な黒氷柱を確認しています」
雪洞の隅に広げられた地図の上に、隊長が手袋越しの指で印を置く。
「高さは丘ほど。周囲に多数の氷魔が集結していました。距離を詰めるほど、全身から力が抜ける感覚が強くなり、魔導具の値も急降下しました」
「どのあたりから顕著になった」
ダニエルの問いに、隊長は言葉を選ぶように答える。
「目視で氷柱の形がはっきり分かるようになった辺りです。距離にして百五十歩前後でしょうか。それ以上は危険と判断して撤退しました」
「氷魔の数は」
「少なくとも十数体。氷柱の根元から湧くように現れています。周囲の黒い氷片がまとまり、姿を取るような場面も確認しました」
雪洞の中の空気がわずかに重くなる。
「黒氷柱の位置は間違いないのですね」
私が念のため確認すると、隊長ははっきりとうなずいた。
「はい。地形の特徴と星の位置を基準に測っています。前回の報告地点とも照合済みです」
「黒氷柱そのものの様子はどうだった」
アレス様が尋ねる。
「表面に亀裂が多数走っているように見えました。ただし、氷というより黒いガラスの塊に近い印象です。光を吸い込み、周囲の雪面だけが不自然に暗くなっていました」
それは、聞くだけで嫌な感覚を呼び起こす描写だった。
「試料は持ち帰れたか」
「はい。外縁部の黒氷を欠き取り、密閉箱に収めてあります」
隊員の一人が前に出て、小さな金属箱を差し出した。ダニエルが受け取り、慎重に蓋を開ける。
中に納まっていたのは、拳ほどの黒い氷片だった。
普通の氷より濁りが強く、透明ではない。光にかざすと、表面ではなく内部で何かがうごめいているように見える。
「触れないように」
ダニエルが釘を刺し、布越しに氷片の表面へ魔導具の先端を当てた。測定盤の針が、じわじわと下がっていく。
「近づけただけで周囲の魔力を吸っています。これは本物でしょう」
「本物?」
「古記録にある氷魔の核です。乱れた魔力が凝縮し、結晶化したものと見ていい」
私は思わず息を呑んだ。
「つまり、あの黒氷柱は」
「乱れの中心だ」
ダニエルが言い切る。
「周囲で発生している氷魔は、あの柱から供給を受けているはずです。柱を破壊できれば、発生源を断てます」
「破壊できれば、の話ですが」
軍務長官が静かに口を開いた。いつの間にか雪洞に入っていたらしい。
「近づくだけで兵が削られる相手だ。常の行軍でその距離まで踏み込むのは無謀です」
偵察隊長も頷く。
「撤退の合図を出すのがあと数分遅れていたら、何人かは自力で歩いて戻れなかったと思います」
「事前に雪洞補給所で温食を取った部隊でさえ、その状態だ」
軍務長官の声には重さがあった。
「補給のない状態であの距離まで進めば、戦う前に膝をつく」
*
偵察隊の一次報告を終えると、アレス様はその場で簡易の作戦会議を開いた。雪洞の空いた一角に机を持ち込み、地図と報告書を並べる。
参加者はアレス様、軍務長官、ダニエル、情報主任、工兵隊長、そして私だった。
「現状を整理する」
アレス様が地図の中央を指で押さえる。
「氷原中央に黒氷柱。周辺に多数の氷魔。柱に近づくほど兵の魔力が急速に削られる。柱自体は破壊可能と推定」
「問題は、そこまで兵を連れて行き、なお戦える状態を保たせる方法です」
情報主任が補足した。
「前線補給所から氷柱までの距離を考えると、途中の消耗も小さくはありません」
「雪洞補給所を今より前に出す案はどうだ」
軍務長官が地図上で指を滑らせる。
「この尾根の裏までなら、黒氷柱とは丘一つ分の距離だ。そこまでなら魔力吸収の影響もまだ薄い」
工兵隊長が首を横に振る。
「地形的には可能ですが、黒氷柱からの直線上に近すぎます。敵に気取られれば包囲の危険があります」
「湯を沸かす補給所など、見つかれば格好の標的だな」
軍務長官の言葉に、私は別の案を口にした。
「ならば、補給所そのものを増やすのではなく、核に向かう部隊だけを事前に整える拠点を作りませんか」
全員の視線がこちらに向く。
「前線補給所で一度温食を取った兵の中から、黒氷柱への突撃部隊を選びます。その部隊だけを対象に、さらに前方に小さな補給拠点を設けるのです」
「小さな補給拠点?」
「はい。雪洞の内側に熱源を通し、外からは存在が分からない程度の規模にとどめます。そこに魔導石と鍋を一式運び込み、突撃前にもう一段階、魔力循環を整えて送り出す形です」
「前線よりさらに前に出すのだな」
「そうです。ただし常設にはしません。核破壊作戦の期間だけ使う一時拠点とします」
情報主任が眉をひそめた。
「外から見えないようにするというが、熱と匂いは隠しきれない」
「熱は雪と断熱材で封じ、換気口を黒氷柱とは逆方向に向けます。匂いについては、配膳以外の時間は必ず蓋を閉め、外に流れないよう魔導幕を張ります」
「魔導幕でどこまで抑えられるかだな」
その時、工兵隊長の隣に座っていた男が口を開いた。元家令で、今は設備と魔導機構の調整役を担っている。
「断熱と換気のバランスを取れば、不可能ではありませんな」
彼は地図の端に簡単な図を描き込んだ。
「雪洞の天井に二重の空間を作り、熱は手前の層に溜めて、排気は細い管で別方向へ逃がす。内部と外部の圧を調整する結界を合わせて使えば、外に出る匂いと湯気は最小限に抑えられます」
「そんな細工ができるのですか」
「大氷期のときに公会本部の煙突で試した仕組みを応用すれば、材料は足りるはずです。規律に反しない範囲でやりましょう」
彼は以前とは違い、温食に関わる提案をためらわなくなっていた。
「雪洞自体は工兵が掘る。内部の結界と保温構造は我々が組む」
工兵隊長が続ける。
「規模はどうする」
「突撃部隊が一度に入れる人数は限られます」
私は机上の紙に数を記した。
「鍋と保温槽の容量を考えると、一度に十人前後が限度です。隊を小分けにして順番に入ってもらう形になります」
「つまり、核へ向かう部隊は中隊規模としても、実際に雪洞で補給を受けて一気に突入するのは、そのうちの先頭部分ということか」
「はい。残りの兵は前線補給所で整えた状態を維持したまま、距離を詰める間に交代で雪洞に入ることになります」
軍務長官が腕を組んだ。
「手間はかかるが、兵を守るには必要な手順だな」
「敵の目の前で湯を沸かすことには変わりませんが」
情報主任が言う。
「少なくとも黒氷柱の直線上からは外す。雪洞の入口は斜面の陰側に向ければ、直接見つかる可能性は低いでしょう」
工兵隊長が地図の等高線を指し示した。
「この窪地の縁なら、黒氷柱からは死角になる。そこからなら核までの距離も今日の偵察位置より短くて済む」
「補給拠点はそこに置こう」
アレス様が決めた。
「雪洞の設営は工兵隊と設備班、公会から補給要員を最小限。護衛班を一組つける。突撃部隊の規模と編成は、ここで詰める」
*
「核破壊部隊を編成する」
アレス様がはっきりと口にした。雪洞の中の空気がわずかに変わる。
「中隊規模を想定する。黒氷柱に接近し、柱そのものを破壊することが任務だ」
軍務長官が地図を見ながら候補となる部隊名を書き込んでいく。
「機動力の高い歩兵を中心に編成し、魔導兵を少数混ぜる。氷魔との近接戦闘と柱への集中攻撃を分担させる必要があります」
「全員、前線補給所と前方雪洞の両方で補給を受けることを条件とする」
ダニエルが口を挟む。
「魔力循環の状態が悪い者は選抜から外すべきです。氷魔の餌になるだけですから」
「選抜の基準はお前と軍務長官で決めろ」
アレス様は迷いなく指示を出した。
「俺は全体の指揮を執る。核への接近経路と撤退路は、今日の偵察報告を基に引き直す」
「撤退も前提に入れるのですね」
情報主任が確認する。
「当たり前だ。行きっぱなしの作戦は作戦とは呼ばない」
その言葉に、緊張の中にもわずかな安堵が広がった。
「レティシア」
「はい」
「お前には前線補給所と前方雪洞の両方の補給計画を任せる。どの隊がどの順番でどれだけ取るか、一枚の紙に落とせ」
「分かりました」
私はすでに頭の中で枠組みを組み立てていた。
「突撃部隊の人数が確定したら教えてください。それに合わせて配分と時間枠を調整します」
「すぐに出す」
軍務長官が答える。
「工兵隊と設備班は雪洞の準備に入れ。資材の一覧をまとめてくれれば、公会の倉庫から出せるものはすぐに回す」
「承知しました」
工兵隊長と元家令が同時に頭を下げた。
*
会議がひとまず区切りを迎え、各部署が動き始める。
私は地図の前に残り、黒氷柱の印をあらためて見つめた。
氷柱の手前に丸を描き、その周囲に二重の線で前線補給所と前方雪洞の位置を書き込む。そこから陣地までの線を、何本も引き直した。
「ここが核……」
つい小さく漏らした言葉に、隣から声が返ってきた。
「そうだ」
顔を上げると、アレス様が立っていた。
「あそこを壊せば、氷魔の発生は収まる。だが壊すまでの道は短くない」
「その道をできるだけ安全にするのが、私の役目です」
「頼む」
彼の声は短く、はっきりしていた。
私は黒氷柱に向かう線の上に指を置き、突撃部隊のための補給経路を書き加え始めた。




