第224話 前哨戦と士気
温食公会本部の調理場には、朝から人が詰めかけている。いつもの大鍋の隣に、見慣れない木箱や金属容器が並んでいた。前線用の携行食と、雪洞補給所に運び込むための保温槽だ。
「パン生地、次の分もう発酵に入ります」
「干し肉の刻み終わりました。分量、札の通りで問題ありません」
若い料理人たちの声が飛ぶ。その中に、レオの姿もあった。
「レオ。本当に行くのですね」
「はい。軍の補給部隊に志願しました。奥様が作ってくださったやり方なら、俺たちでも役に立てます」
彼は少し緊張した顔で、それでも目だけはまっすぐだった。
「前線と言っても、あなたたちの任務は雪洞補給所までです。戦闘には加わりません。必ず護衛の指示に従ってください」
「分かっています。鍋から離れるな、とも言われました」
最後に少し笑いが混じる。
「それは大事です」
私は作業台の端に置いた携行食の試作品を指さした。
「高密度雑穀パンは一人一日二個。濃縮スープの塊は一日三回を目安。甘塩味の干し果実とナッツは、魔力が落ちたときの予備です。配り方は何度も練習しましたね」
「はい。列を二つに分けて、器を先に回してから中身をよそう。鍋に触る前と後で手を洗う。残りが出たら勝手に分けないで、必ず記録を取る」
「完璧です」
私は彼の肩を軽く叩いた。
「怖くないと言えば嘘になりますが、やります」
「怖いと思えるなら大丈夫です。怖さを忘れる方が危険ですから」
そのやり取りを、少し離れたところで見ていたブランドンが静かに頷いた。
「公会からの補給要員は十名。全員、基本衛生と魔力循環の初級講習を終えています。軍務長官からも正式に受け入れの通達がありました」
「ありがとうございます。前線での運営は軍の規律に従います。こちらから口を挟み過ぎないようにします」
「必要なときは遠慮なく言葉を挟いなさい」
ブランドンの声は穏やかだった。
「今回の任務で、温食公会の価値を示せるかどうかが問われます。あなたの役割は大きい」
「はい」
私は深く息を吸い、保温槽の蓋を確かめた。魔導石をはめ込んだ部分から、かすかな温もりが伝わる。これが前線で兵たちの命綱になる。
*
前線手前の仮設陣地までは、日中の行軍で二日だった。雪はまだ深いが、領軍が開いた補給路のおかげで、荷車もどうにか進む。
陣地に到着すると、軍務長官と現地指揮官が出迎えてくれた。
「長旅ご苦労だった、公爵夫人」
「お迎えありがとうございます。補給所の設営場所を確認させてください」
案内されたのは、主陣から少し外れた斜面だった。雪庇の陰になっていて、外からははっきり見えない。
「この下に雪洞を掘り、補給所とする予定だ。工兵隊が下穴を開けている」
崩落防止の支柱を組み込んだ雪洞は、入口こそ小さいが内部は想像以上に広かった。人が十数人入っても身動きが取れる。壁と天井には断熱用の板がはめ込まれ、中央には保温槽を置く台が据え付けられている。
「換気口はこちらです。雪面を通って陣地の反対側に抜けます。煙はそちらから流しますので、敵からは見えにくいはずです」
説明したのは工兵隊長だった。
「素晴らしい出来です。ここなら熱も匂いも外に漏れにくいでしょう」
私は保温槽を台の上に載せ、魔導石の固定具を締めた。蓋を開けると、内部にはすでにぬるい湯が張られている。これから濃縮スープの塊を溶かし、本番の温度まで上げる。
「配膳の順番を決めましょう。前線に出る部隊ごとに時間を区切り、入れる人数を制限します。一度に押し寄せると混乱します」
「兵の動きはこちらで調整しよう」
現地指揮官が頷く。
「ここを補給所として守る兵も配置する。雪洞は守備の要だ」
レオたち補給班は、すでに雪洞の隅で動き始めていた。鍋の位置、器の置き場所、手洗い用の水桶。限られた空間の中に、必要なものをどう配置するかを手早く決めていく。
「レオ。入口近くに立つ兵にも声をかけてください。列の整理を手伝ってもらいましょう」
「了解しました」
彼は護衛班の隊長に話しかけ、すぐに段取りを擦り合わせた。
私は雪洞の中央に立ち、全体を見渡した。ここが、氷魔との戦いに向かう兵たちの最初の寄り道になる。
*
前哨戦の開始はその翌日と決まった。
氷魔との本格的な交戦に入る前に、黒氷域の手前で動きを探る。前線に出るのは二個小隊。目標は敵の性質の再確認と、撤退路の把握。
「初日の補給計画はこの通りです」
私は軍務長官と現地指揮官の前に紙を広げた。兵の名と所属、雪洞に入る時間帯、予備枠まで細かく記してある。
「出立前に一度。偵察から戻ったらすぐに一度。必要ならその後もう一巡。これで行きます」
「時間に遅れる者が出るかもしれん」と現地指揮官。
「遅れた者には、その時点の列の最後尾に入ってもらいます。湯の温度を維持するために、一定の流れは崩せません」
「了解した」
軍務長官は短く答え、紙を折り畳んだ。
「初回はお前も雪洞に入るか」
「はい。温導の効果を直接見ておきたいと思います」
「無理はするな」
「分かっています」
前哨戦当日の朝、雪洞補給所には順番待ちの兵が列を作っていた。入口の外で待たせると冷えが進むため、列は雪洞内から折り返す形に調整されている。
「一人一杯。飲み終わったら器を返してすぐに入れ替わってください」
レオが落ち着いた声で説明した。鍋の前には補給班が三人並び、スープを注ぐ役と器を受け渡す役に分かれている。
湯気の立つスープを受け取った兵たちは、最初こそ戸惑った様子だったが、数口飲むうちに表情が変わった。
「腹から温まるな」
「冷えが抜けていく感じがする」
「匂いも悪くない」
素直な感想があちこちから漏れる。
「甘い干し果実は前線で。今はスープを重点的に取ってください」
私は時間の許す範囲で、一人一人の顔色と手の色を見て回った。魔導具で測るほどの余裕はないが、血の巡りは目にも表れる。
「奥様。これなら持久戦でも耐えられそうです」
護衛班の隊長が、空になった器を手にしながら言った。
「道路の開削作業でも同じものを使えます。冬の工事はいつも消耗が激しいので」
「落ち着いたら、その使い方も検討しましょう。今は前線を優先します」
やがて最初の二個小隊が雪洞を出て、氷原の方角へ姿を消した。
雪洞の中は一度静かになった。鍋の中身と保温槽の温度を確認しながら、私は出口の方向を見た。
「ここからは待つ時間ですね」
「ええ」
フィーが小声で答えた。補給班の予備として同行している彼女は、器具の管理と食材の残量確認を担当している。
「戻ってきたときに、すぐ出せるようにしておきましょう」
「はい」
昼を少し回った頃、見張り台から合図が上がった。
「前線より使いが到着」
雪洞の入口に近い通路で待っていると、伝令の兵が駆け込んできた。頬に霜をつけ、息を切らせている。
「閣下への速報と、公爵夫人への伝達を預かっています」
「こちらで聞きます」
私は兵を雪洞の内側へ誘導し、近くにいたダニエルを呼んだ。彼は前線用医療班として陣地に滞在している。
「前哨戦の結果は」
「氷魔と思しき存在三体と交戦しました」
兵は姿勢を正して報告した。
「姿は大型の狼に類似。しかし体は半透明で、斬りつけると氷のように砕けます。砕けた欠片は黒くくすんでおり、しばらく地面の上で蠢いた後、動かなくなりました」
「接触した兵の状態は」
ダニエルの問いに、伝令はすぐ答えた。
「直接噛まれた兵はいません。ただ、距離を詰めた者のうち数名が、戦闘中に急激な疲労感を訴えました。魔導具で確認したところ、魔力値が三割ほど低下していました」
「意識を失った者は」
「おりません。撤退後に雪庇の陰で休ませ、持参していた携行スープを摂らせたところ、一時間ほどで値は六割まで戻りました」
ダニエルと私の視線が合う。
「戻りが早いですね」
「通常の魔力枯渇なら、あの環境で一時間では三割も戻りません」
彼は短く言った。
「出立前の雪洞補給が効いている可能性が高い。基礎の循環が安定していたことで、削られた分の回復が早まったのでしょう」
「戦果は」
「氷魔と思しき三体は撃破。こちらの負傷者は軽傷者数名。凍傷もありません」
伝令の声には安堵が混じっていた。
「撤退路と地形の確認も完了。黒氷柱の位置は遠目ながら視認できたとのことです」
「よくやった」
ダニエルが短く告げ、温かいスープを器に注いで伝令に差し出した。
「まず飲め。それから詳細な記録を取る」
「ありがとうございます」
兵は一礼し、スープを口に運んだ。緊張が少し解けた表情になる。
それから夕刻にかけて、前線からの報告が順次届いた。
別の小隊も氷魔との交戦を経験し、ほぼ同様の性質を確認した。接近すれば魔力が削られるが、斬撃で破砕は可能。こちらが整った状態で臨めば、一方的に飲み込まれることはない。
「前線補給を受けた部隊は、魔力値の戻りが全体的に早い」
ダニエルは簡易机の上に紙を並べながらまとめた。
「従来の行軍と比較すると、回復曲線が明らかに変わっています。氷魔に吸われた分を、体が自力で取り戻している」
軍務長官も雪洞に入り、報告を確認した。
「被害は想定より少なく抑えられた。これは素直に良しとすべきだな」
「兵の反応はどうですか」
私が問うと、軍務長官はわずかに口元を緩めた。
「最初は『鍋の番など』と渋い顔をしていた古参もいたが、今は違う。前線から戻った兵が、真っ先に雪洞の場所を確認するようになった」
「それは何よりです」
「『あのスープを飲んでからなら、また行ける』と言った者もいた。士気の維持にも影響が出ている」
レオたち補給班は、昼から途切れなく働き続けていた。鍋の火加減、具材の補充、器の洗浄。雪洞の中の動きに無駄はない。
「レオ。疲れていませんか」
「大丈夫です。前に比べたら、ちゃんと休憩も回していますから」
彼は額の汗を拭き、明るい顔で答えた。
「前線の兵が『残さず食べます』と言ってくれるので、作りがいがあります」
「残さず食べてもらうために作っているのですから、ちょうどいいですね」
そんな会話をしていると、雪洞の入口から新たな兵が入ってきた。顔は疲れているが、足取りはしっかりしている。
「お疲れさまです。一杯どうぞ」
レオが器を差し出す。兵はそれを受け取り、私の方をちらりと見た。
「閣下の奥方様ですか」
「はい」
「前線の連中に代わって礼を言います。あれがあるとないとじゃ、本当に違います」
「ありがとうございます。皆さんが持ち場で踏ん張ってくださるから、こちらも用意する意味があります」
兵は照れたように笑い、スープを飲み干した。
*
夜。前哨戦の一日目が終わり、雪洞の火は少しだけ落とされた。
私は簡易机の前で、ダニエルと共に報告書を整理していた。魔力値の変化、負傷者の数、回復に要した時間。数字と実感を合わせる作業は、温食公会の初期から続けてきたことに近い。
「方向性は間違っていません」
ダニエルが静かに言った。
「兵の体は、温と栄養が整っていれば、氷魔に削られても戻る。今回の結果がそれを示しています」
「ただし、黒氷柱の近くでは桁が違うでしょうね」
「そうだろうな」
彼は地図の一角に印をつけた。
「今日の前哨戦は、あくまで外縁部での接触だ。核に近づけば、魔力の吸い上げも強くなるはずだ」
「そこに向かう部隊には、今よりさらに密度の高い補給が必要になります」
「そのための雪洞補給所だ」
数字と地図を見下ろしながら、私は自分の中で次の段取りを組み直した。
前哨戦は成功した。温食と補給の仕組みが、実戦の中でも通用することは確かめられた。
私は机の端に置いた鍋掻き棒を手に取り、雪洞の中央に据えられた鍋の様子を確かめるために立ち上がった。




