第221話 黒氷の兆し
大氷期を死者ゼロで乗り切ったという正式報告が出てから、わずか三日。領都は解放感に包まれていた。
公共食堂では、非常態勢を終えた記念に、少しだけ豪華な昼食が振る舞われている。温食公会の掲示板には、新しい研修希望者の名がびっしりと並んだ。兵舎でも、久しぶりに訓練以外の雑談が増えたと報告が上がっている。
私は公会本部の小さな執務室で、次期講習会のカリキュラム案を整えていた。災害時運営の成功例をまとめて、常設科目に組み込むつもりだった。
扉が二度、短く叩かれる。
「どうぞ」
入ってきたのはブランドンだった。公会本部に自ら足を運ぶのは珍しい。
「お疲れ様です、執事長。今日は風が穏やかですね」
「気象の話をしに来たわけではございません」
手に持つ筒の封蝋には、北境観測所の紋章が押されていた。その赤の色が、妙に冷たく見える。
「閣下から。至急、こちらも確認をと」
渡された筒を開き、中身にざっと目を通した瞬間、背筋に固いものが走った。
『北境氷原における魔力値の急上昇を確認。
氷晶構造に異常発達あり。肉眼で黒色の混入を確認。
夜間、黒氷付近にて不明瞭な影の移動を観測。
従来記録された氷獣との一致なし。
古記録にある「氷魔」前兆との類似を否定できず』
最後の行に、観測所長の署名と、王立学術院付属観測局にも同報した旨が記されていた。
「……気象の話ではありませんでしたね」
「はい。閣下がお待ちです」
「すぐ行きます」
私はペンを置き、外套を羽織ると、執務室を後にした。
*
公爵邸の執務室には、すでに数名が集まっていた。アレス様、ダニエル軍医、軍務長官、情報主任。全員の表情に、先ほどまでの安堵の影はない。
「遅れて申し訳ありません」
「よく来た」
アレス様は短く頷き、観測報告の写しを机の上に示した。
「先ほど観測所と直接通信を行った。記録は誇張なしと見ていい」
ダニエルが補足する。
「魔力残渣のグラフも添付されていました。大氷期の終盤から、北境側に歪みが偏り始めています」
「歪み、ですか」
「はい。アレスティード領内は温食と備蓄のおかげで致死的な乱れが起きなかった。その分、国境を越えた周辺や、他領の放置された冷えと飢えの乱流が北に流れ込み、境界氷原に溜まりつつあると推測されます」
「こちらが守った結果、外の負荷が押し寄せている」
軍務長官が苦い顔をした。
「本来なら王都が全体を調整すべきところですが、間に合っていないのでしょうな」
「古記録の引用があります」
私は報告の末尾を指で押さえた。
「『極寒と飢餓の世に、黒き氷柱より影獣現る。人の温を喰らい、魔を啜りて群れ成す。その名を氷魔と記す』」
「古文書らしい表現だが、今回の記録と整合する部分が多い」とダニエル。
「黒色の氷晶、周辺での魔力吸い取り現象、不明の影の観測。全て条件を満たしている」
私は無意識に手を握り締めていた。大氷期を乗り越えた達成感が、一気に冷水を浴びせられたように消えていく。
「氷魔が境界を越えればどうなりますか」
問うと、軍務長官が淡々と答えた。
「兵の魔力が吸われれば戦線維持が困難になります。民間に及べば、生命力の弱い者から順に倒れていく。物理的な被害に加え、士気への打撃も甚大です」
「つまり、放置はできない」
「はい」
当然の確認だった。
*
「対応方針を整理する」
アレス様が机上の地図に視線を落とした。北境線と、観測地点が赤い印で示されている。
「一、現状把握。偵察隊を派遣し、黒氷域の規模と氷魔の有無を確認する」
「二、軍備。氷魔が実在すると仮定し、通常部隊で対処可能かどうかの検討」
「三、兵站。前線に投入する兵の魔力循環を安定させる仕組みの確保。これはレティシアに相談する」
視線がこちらに移る。
「あなたの望む形ですね」
「温食と巡りの仕組みを軍に正式に組み込むことができるなら、実験的だった施策が制度になります」
「だが理屈だけでは動かせない」と軍務長官。
「前線で通用する形に落とし込まねばなりません」
「そのための試作と検証なら、すぐに始められます」
私は頷いた。
「携行食と簡易スープを前線仕様に改良します。冷え切った状態での消化と魔力の戻りを考えた配合で。温導質がなくても扱える手順にします」
「偵察結果を見てからで遅くはないが」
アレス様は一拍置き、首を振った。
「いや、先に動く。間に合わなければ意味がない」
その短い判断に、部屋の空気が締まる。
「レティシア。公会に連絡を。軍と共同で、寒冷地携行食と前線補給所の案を作ってくれ」
「承知しました」
「ダニエル。氷魔出現時の症状と対処を整理し、兵への簡易マニュアルを作る」
「了解しました」
「軍務長官。偵察隊の選抜と展開準備を」
「すぐに」
各自が動き出す。
私は深く息を吸い直した。
大氷期は越えた。それでもまだ、この土地は試してくる。そう感じたが、その言葉は胸の内だけにとどめた。
「アレス様」
「何だ」
「今度も、温かい食事で勝ちましょう」
「当然だ」
彼の即答を聞き、私は踵を返した。
やるべき仕事は、もう見えている。




