第220話 新しい礎
数日後、私は完全に熱が引いたと侍医から正式なお墨付きをもらった。まだ長時間の労働は禁じられたが、短い歩行と軽い仕事なら許可が出る。
「では、本日の公の場への出席は差し支えありませんな。ただし長居は禁物ですぞ」
「分かりました」
私が答えると、侍医は安堵の息をつき退室した。
「無理はさせない」
扉が閉まるのと入れ替わるようにアレス様が入ってくる。
「本当に大丈夫です。今日は大事な日でしょう」
「ああ」
彼は窓の外を一瞥した。真冬の陽光が、雪を静かに照らしている。
「全ての集計が出た。確認しておくか」
「お願いします」
彼は数枚の書類を机から持ち上がり、ベッド脇の小机に広げた。
「今次寒波における領内死者数。餓死、凍死、共にゼロ。重症者は全て快復済み。家屋倒壊も最小限。復旧は自力で可能な範囲だ」
一文一文が、重く胸に落ちていく。
「……本当に」
「疑う余地はない」
数字が全てを物語っていた。
「この成果は、温食公会と公共食堂網の存在によるところが大きいと、市参事会と軍も評価している。今日、それを領民に正式に伝える」
「ご一緒してもよろしいですか」
「ああ。お前がいなければ意味がない」
短くそう言って、彼は少し視線を逸らした。その横顔に、僅かな誇らしさが見えた気がする。
*
昼前。領都中央広場は、久しぶりの青空の下に多くの人で埋まっていた。雪かきを終えた男たち、子どもを抱いた母親たち、公会章を胸に付けた料理人や見習いたちの姿もある。
仮設の壇の上。私はアレス様と並んで立った。足元はまだ少し頼りないが、自分の意思で立てている。
ブランドンが一歩前に出て、よく通る声で開会を告げた。
「これより、今次寒波における報告と御礼をお伝えする」
ざわめきが静まる。視線が壇上に集まる。
「アレスティード公爵より」
促されて、アレス様が前へ出た。
「この冬。我々は、百年に一度と言われる寒波に直面した」
彼の声はいつも通り低く平板だが、広場の隅々まで届いていた。
「だが結果として、この領で飢えと寒さで命を落とした者は一人もいない。これは偶然ではない」
人々の間に小さなどよめきが走る。
「備蓄を管理した者。雪を掘り道を繋いだ者。炊き出し場で鍋を振った者。自分の家を開けて隣人を入れた者。その全ての働きが積み重なった結果だ」
彼は一人一人を見るように視線を巡らせた。
「温かい食事は贅沢ではない。領を守る最前線だと、私は考える。今回、その考えが正しいと証明された」
そして、わずかに私の方へ体を向けた。
「その仕組みを築き、温食公会と公共食堂を通じて人を育てたのは、公爵夫人レティシアだ。ここで、その名を明確にしておく」
一瞬、息が詰まった。広場の空気が変わるのが分かった。
「だが」
彼はそこで言葉を継いだ。
「彼女一人の功績ではない。彼女に学び、共に動いた全ての者の成果だ。この領地の者たちは、温かさを弱さとせず、互いに支え合う力を持つと示してくれた」
その言葉に頷く者が多くいた。誰かが手を叩き、それが波のように広がる。
拍手の中、ブランドンが再び前に出た。
「続いて、公爵夫人より一言」
私は深く息を吸い、前へ出た。
*
「レティシア・アレスティードです」
名乗りだけで、広場が静まる。
「この冬を越えられたことを、まず皆さんにお礼申し上げます」
私は一人一人に語りかけるつもりで言葉を選んだ。
「私が厨房で鍋をかき回していたからではありません。皆さんが、自分の場所で、とるべき行動を選んだからです。備蓄を守った人。スープをよそう人。列を乱さなかった人。子どもに先に食べさせた人。その一つ一つが命を守りました」
子どもの頭を撫でている母親が、照れたように俯いた。
「温かい食事は、ただの料理ではありません。体を動かす力であり、人と人を繋ぐ合図でもあります。今回それが、この領地のどこでも当たり前に用意できるようになっていたことを、私は誇りに思います」
一度言葉を切り、続けた。
「この仕組みは、私一人の所有物ではありません。もう皆さんのものです。これから先も続けるかどうかを決めるのは、ここにいる皆さんです」
視線の先で、公会章をつけた若い料理人たちが真剣な顔で頷いていた。
「私は、これからも提案をします。改善もします。でも、全てを抱え込むことはしません。皆さんを信じて任せます。その代わり、一緒に考え、一緒に動いてください」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「それだけです。ありがとうございます」
頭を下げると、今度は先ほどより大きな拍手が広がった。
*
式典は大きな混乱もなく終わった。解散の声と共に、広場の人々は互いに肩を叩き合いながら帰路へ散っていく。
壇を降りたところで、レオたち公会の面々が駆け寄ってきた。
「奥様、本当にありがとうございました」
「ありがとうございました!」
若い声が重なる。
「ありがとうはこちらの台詞です。皆がいなければ成り立たなかったわ」
「これからも、ちゃんとやります」
「任せます」
そう言うと、レオの表情が引き締まった。
シルヴァン村の村長もゆっくりと近づいてきた。
「公爵夫人。今回は世話になった」
「村長さんが決断してくださったからです」
「次は、外から言われる前に自分たちで動く」
「楽しみにしています」
短いやり取りを交わし、それぞれが自分の持ち場へ戻っていく。
「冷える。戻るぞ」
隣でアレス様が促した。私の足元を一瞥し、さりげなく歩幅を合わせてくれる。
「そうですね」
私は素直に頷き、公爵邸への道を並んで歩き出した。
途中、振り返る。広場には雪かきを続ける人たちと、仮設だったはずの炊き出し小屋を片付ける者たちの姿があった。その手並みはもう迷いがない。
「アレス様」
「何だ」
「この領地は、強いですね」
「ああ」
「私も、その一部でいられて良かった」
「お前は中心だ」
あまりに真っ直ぐな言葉に、思わず息を呑んだ。
「……そこまで言われると、少し照れます」
「事実しか言っていない」
彼はそう言って歩みを緩めない。
私は短く笑って、彼の隣を歩いた。
「これからも、一緒にやりましょう」
「ああ。共にやる」
その約束を胸に、公爵邸の門をくぐった。




