第219話 雪解けの報せ
翌朝、私は自分の意思で目を覚ました。体の重さは残っていたが、昨夜までの焼けるような熱は引いている。額の布もぬるくなっていた。
カーテンの隙間から、いつもと違う光が差し込んでいた。白一色ではない。淡いが確かな明るさ。
「起きたか」
控えめなノックもなく、アレス様が扉を開けて入ってきた。私が上半身を起こそうとすると、すぐさま歩み寄り、背に手を添えてくれる。
「お加減は」
「だいぶ楽になりました。喉も、もう平気です」
声が掠れていない。それだけでほっとした。
「そうか。侍医を呼ぶ」
「その前に、窓を開けてもいいですか」
「冷える」
「少しだけ」
小さく頼むと、彼は一瞬だけ迷う顔をしたが、窓辺に歩いて行き、上部の小さな窓を少し押し上げた。鋭い風が吹き込むことを覚悟したが、頬を撫でる空気は、想像していたほど刺すようではなかった。冷たいが、刺す痛みは和らいでいる。
厚い雲が切れ、淡い陽の光が雪面に反射しているのが見えた。
「……止んだのですね」
「ああ。今朝になって急激に弱まった。観測所の報告でも、気圧と魔力循環が回復し始めている」
彼の短い言葉が、この数週間の戦いの一区切りを告げていた。
*
侍医の診察は手短だった。
「熱も下がりましたし、脈も安定しています。まだ本調子ではありませんが、もう命の心配はございません。ただし、あと数日は軽い仕事までにしてください」
「厨房に立つのは」
「許可できませんな」
きっぱりと言われてしまった。
「……承知しました」
横で聞いていたアレス様が、満足そうに小さく頷いたのを見て、少しだけ複雑な気持ちになる。
*
午前中のうちに、各地からの最初の正式な報告が届き始めた。私の体調に配慮して、アレス様が書類を持って寝室まで来る。
「見るか」
「もちろんです」
彼が小机をベッド脇に移し、羊皮紙を広げた。私は上体を起こし、その文字を追った。
「シルヴァン村。公共食堂の備蓄、残量十分。病人はいるが全員回復基調。死亡者なし」
胸の奥が静かに熱くなる。
「鉱山町。ヨハンの店を中心に全戸への配給が行われ、凍死者、餓死者ともにゼロ」
次の紙をめくる。
「東部の漁村。港は凍結したが、干物と公共食堂のスープでしのいだ。高齢者数名が体調を崩したが、ダニエル軍医の指導で全員回復済み」
彼は淡々と読み上げる。そのどの報告にも、「死者」という言葉はなかった。
「本当に、誰も」
「今のところ、領内の全報告を合わせても、寒波による餓死凍死はゼロだ」
数字として突きつけられると、ようやく実感が追いついた。
「すごいことです」
「お前の作った網が、全て受け止めた」
「皆さんが、自分で動いてくださったからです」
「それを可能にしたのは誰だ」
少しだけ責めるような声音だった。私は言葉を飲み込む。
「シルヴァン村の村長からも手紙が届いている」
そう言って渡された短い書簡には、不器用な文字でこう記されていた。
『最初は疑ってすまなかった。今回ばかりは、あんたたちに命を救われた。これからは自分たちの手で守る』
その一文が何より嬉しかった。
「他にも、公会あてに感謝の報せが多い。炊き出しに参加した若者たちが、自分の仕事に誇りを持ち始めていると」
「それなら、また講習会の内容を見直さないと」
「まだ寝ろ」
「はい」
思わず口を滑らせたところを、即座に遮られた。
*
昼過ぎ、どうしても自分の目で確かめたくなり、フィーと侍医に釘を刺された上で、短時間だけ廊下に出る許可をもらった。
「本当に少しだけですよ。階段は禁止です」
「分かっています」
アレス様が私の肘を支えながら、寝室の扉を開ける。暖炉の火と、人の気配が流れ込んできた。
避難民で埋め尽くされていた廊下は、すでに整理が進んでいた。体調の戻った人から順に自宅へ戻り、残っているのは長距離移動が難しい者と、片付けを手伝う者たちだ。皆、手を動かしながら穏やかに会話を交わしている。
「奥様!」
レオがこちらに気づき、慌てて駆け寄りそうになったが、途中で速度を落として頭を下げた。
「ご無事で良かったです」
「こちらこそ。レオ、よく頑張ってくれました」
「いえ。その……教えていただいた通りにやっただけです」
耳まで赤くして視線を逸らす。厨房からは香ばしい匂いが漂ってきていた。
「今日は何を」
「干し豆と根菜のトマト煮込みです。避難のお礼も兼ねて、少しだけ味を濃くしました」
「きっと喜ばれますね」
「はい」
短い会話だけで、足元がふらつく。アレス様の支えがなければ、その場に座り込んでいたかもしれない。
「戻るぞ」
「もう少しだけ」
「三歩だ」
「子ども扱いです」
「事実だ」
結局、廊下の端まで行くことは許されず、踵を返すことになった。その途中、毛布を畳んでいた老婦人が立ち上がり、小さく頭を下げる。
「奥様。本当に、ありがとうございました」
その声に続いて、周囲の数人も同じように頭を下げた。誰も大げさな言葉は使わない。ただの礼の一言。それが重かった。
「こちらこそ。協力してくださって、ありがとうございます」
私の言葉に、彼らは顔を上げ、自然な笑みを見せた。
*
部屋へ戻る途中、私は小さな窓から外を一目だけ見た。厚く積もった雪の上を、使用人と避難民たちが一緒に雪かきをしている。子どもたちが雪を放り投げて笑っている。見慣れた屋敷の庭なのに、少し違って見えた。
寝台に戻り、布団に身を沈める。体はまだ重い。しかし、心の中にあった緊張は、ほとんど消えていた。
「アレス様」
「何だ」
「皆、生きていてくれて良かったです」
「ああ」
「この結果を見ていると、やっと、自分のやり方が間違いではなかったと、思えます」
「間違っていなかった。数字が証明している」
彼はそれ以上、余計な言葉を重ねなかった。それが何よりありがたかった。
「次は、もう少し上手に任せます」
「それがいい」
「そのためにも、しっかり休みます」
「それが一番いい」
短い会話で十分だった。私は目を閉じた。
屋敷のどこかで人が動く気配と、窓越しの柔らかな光を感じながら、静かに息を整えた。




