第21話 温かいスフレという名の爆弾
公爵家の紋章が刻まれた馬車は、ほとんど揺れることなく滑るように石畳を進んでいく。けれど、私の心は静かな嵐のようだった。
窓の外を流れるのは、見慣れた公爵領の街並みではない。より洗練され、しかしどこかよそよそしい空気を纏った、侯爵家の領地だ。今日、私は初めて「アレスティード公爵夫人」として、公式の社交の場に足を踏み入れる。
隣に座るアレスティード公爵は、いつも通り窓の外に視線を向け、何を考えているのか分からない横顔を見せているだけだった。
「緊張しているか」
不意に、低い声が静寂を破った。
「いいえ」と私は即答する。「ただ、少しだけ武者震いを」
彼は私の答えに、わずかに眉を動かした。そして、初めてこちらに視線を向ける。その氷の瞳は、今日の私が纏う、落ち着いた青のドレスを上から下までゆっくりと検分した。
「……いつも通りでいい」
ぽつりと、彼はそれだけ言った。
いつも通り。それは、厨房に立ち、食材と向き合い、ただひたすらに温かいものを作る、あの私の姿を指しているのだろうか。だとしたら、それは何より心強い言葉だった。
「はい、閣下」
私は静かに頷いた。
そう、私は今日、着飾った人形として微笑みに来たのではない。この冷え切った社交界という戦場で、私のやり方を、私の価値観を、はっきりと示すために来たのだ。
我慢はしない。媚びもしない。ただ、私が正しいと信じる「温かさ」を、彼らの目の前に突きつけるだけ。
馬車が緩やかに速度を落とし、壮麗な侯爵家の屋敷の前に静かに停止した。さあ、戦いの始まりだ。
*
侯爵夫人が主催する茶会のサロンは、まさに完璧という言葉がふさわしい場所だった。磨き上げられた床、壁に飾られた見事な絵画、そしてクリスタルのシャンデリアが放つ冷たい光。集まった十数名の貴婦人たちは、色とりどりのドレスを身に纏い、扇を片手に優雅な笑みを浮かべている。
けれど、その笑顔の裏にあるものを、私は見逃さない。私に向けられる視線は、好奇と、品定めと、そしてほんの少しの敵意が混じり合った、鋭い針のようだった。
「まあ、アレスティード公爵夫人。ようこそおいでくださいました」
主催者であるグレイ侯爵夫人が、完璧な笑みで私を迎える。
「お招きいただき、光栄ですわ、侯爵夫人」
私もまた、練習通りの完璧なカーテシーを返した。
実家では、こんな華やかな場に呼ばれることなど一度もなかった。いつも異母妹の引き立て役として、部屋の隅で息を潜めているのが私の役割だったから。あの頃の私なら、この視線の集中砲火に耐えられず、きっと胃が痛くなっていたことだろう。
でも、今は違う。
私が席に着くと、すぐに会話の輪が私を中心に回り始めた。
「まあ、なんて美しい青いドレス。南の空の色ですわね」
「公爵閣下は、近頃ご機嫌麗しいと伺っておりますわ。きっと、奥様のおかげですこと」
一見、聞こえの良い言葉の端々に、棘が仕込まれているのが分かる。「南の田舎者」「男をたぶらかした女」。彼女たちの言外の響きを、私は冷静に受け流す。
やがて、銀のワゴンが運ばれてきて、テーブルの上には芸術品のように美しい冷たい菓子と、完璧な色合いの紅茶が並べられた。砂糖漬けの果物、冷やし固められたムース、精巧な飴細工。どれもこれも、職人の技術の粋を集めた、まさに「冷製主義」の極致だった。
その時、サロンの扉が開き、一人の老婦人が入ってきた。途端に、場の空気がさらに引き締まる。
オルブライト子爵夫人。この地の冷製派の筆頭であり、伝統と礼法の番人を自認する、最も手強い相手だ。
彼女は私を一瞥すると、わざとらしく扇で口元を隠し、隣の席に座る男爵夫人に聞こえよがしに言った。
「近頃は、由緒正しい家の伝統も、ずいぶんと軽んじられるようになったものですわね」
明確な、私への攻撃だった。サロンの空気が、ぴんと張り詰める。
私は、目の前に置かれた美しいムースに、指一本触れなかった。
*
全ての視線が私に注がれているのを感じながら、私は控えていた侍女のフィーに、目だけで合図を送った。フィーは静かに一礼し、そっとサロンを退出していく。
子爵夫人は、私が菓子に手を付けないのを見て、勝ち誇ったように口の端を吊り上げた。
「あら、公爵夫人。侯爵夫人が心を込めて用意されたお菓子が、お口に合いませんでしたか?」
それは、私を礼儀知らずだと断罪する、悪意に満ちた問いかけだった。
私はにっこりと微笑んで、答える。
「いいえ、子爵夫人。あまりに見事な芸術品で、わたくしのような者には、とても手を付けることなどできませんわ」
皮肉には、皮肉で返す。彼女の顔が、わずかに引きつった。
その時だった。
サロンの扉が再び開き、フィーが銀の盆を手に、静かに入ってきた。盆の上に乗せられていたのは、小さな陶器の器。その数、この場にいる全員分。
そして、その器から立ち上る、ふわりとした湯気。
甘く、そして香ばしい、チーズと卵の焼ける匂いが、サロンに満ちていた冷たい香水の匂いを、一瞬にして塗り替えてしまった。
「皆様へ、わたくしからのささやかな贈り物でございます」
私がそう言うと、侍女たちが一人一人のテーブルに、その小さな器を置いていく。
中身は、焼き立てのチーズスフレ。オーブンから出して数分で萎んでしまう、儚く、そして何より「温かい」菓子だった。
黄金色に膨らんだ表面が、ふるふると頼りなげに震えている。貴婦人たちは、目の前に現れた異質な存在に、戸惑いの表情を浮かべていた。
子爵夫人が、扇を叩きつけるように閉じた。
「まあ……!なんてことですの!」
彼女の声は、怒りと侮蔑に染まっていた。
「茶会の席に、そのような温かいものをお出しになるなんて……。まるで、田舎の食堂ですわ!野蛮ですこと!」
その一言で、サロンの空気は完全に凍りついた。誰もが息を殺し、私と子爵夫人の顔を交互に見ている。主催者の侯爵夫人は、青ざめた顔でオロオロするばかりだ。
礼法違反。伝統への冒涜。私が投げつけた爆弾は、見事に彼らの価値観の中心で炸裂した。
私は、ただ静かに微笑んでいた。
さあ、どうする? あなたたちは、目の前のこの抗いがたい誘惑を、ただ「野蛮」の一言で切り捨てることができるのかしら。
長い、長い沈黙。
その沈黙を破ったのは、一番若い、まだ社交界にデビューしたばかりの伯爵令嬢だった。彼女は、好奇心と恐怖が入り混じった目でスフレを見つめていたが、やがて意を決したように、そっと銀のスプーンを手に取った。
スプーンが、ふわふわの表面に吸い込まれていく。
しゅわ、と小さな、心地よい音がした。
彼女は、恐る恐る、黄金色のひとさじを口に運ぶ。
その瞬間、彼女の瞳が、驚きで見開かれた。
そして、次の瞬間には、蕩けるような喜びにその表情が変わる。頬が、ほんのりと上気している。
「……おいしい」
それは、誰に言うでもない、心の底から漏れたような呟きだった。
その一言が、引き金だった。
まるで魔法が解けたように、隣の貴婦人が、そのまた隣の貴婦人が、次々とスプーンを手に取る。あちこちから、「まあ」「なんてこと」「口の中で溶けてしまうわ」という、抑えきれない感嘆の声が上がり始めた。
子爵夫人は、信じられないものを見るような目でその光景を眺め、顔を真っ赤にしている。けれど、彼女の批判の言葉は、とろけるチーズと卵の優しい味わいの前に、もはや何の力も持たなかった。
私は自分のスフレにそっとスプーンを入れ、温かい一口をゆっくりと味わう。
礼法は破った。伝統にも泥を塗ったかもしれない。
けれど、人の「美味しい」という本能の前では、どんな堅苦しい決まり事も無力なのだ。




