第218話 君が育てたもの
熱はまだ完全には引いていなかったが、頭の芯にまとわりついていた重い靄は薄くなっていた。額の布は心地よい冷たさを保ち、喉の焼けるような渇きも、さっき飲んだスープで少し和らいでいる。
「気分はどうだ」
ベッド脇の椅子に腰掛けたまま、アレス様が問いかけた。眠っている間、彼がどれほどそこにいたのかは分からない。ただ、その灰色の瞳の下に薄い影がある。
「だいぶ楽になりました。ご迷惑をおかけしてしまって」
「迷惑だと思うなら、二度とあの倒れ方はするな」
静かな声なのに、言葉が容赦なく刺さる。
「……はい」
「まだ体を起こすな」
「でも、状況を確認しないと。避難所は、厨房は、公会の方は」
「全部把握している。お前の出番ではない」
「そういうわけには」
言い切る前に、視線が重なった。彼は少しだけ目を細めた。
「レティシア。報告する」
彼がそう前置きしたので、私は枕元で指先を握り、黙って耳を傾けた。
*
「まず、公爵家の避難所だ」
アレス様は、執務室で報告を整理する時と同じ口調になった。
「お前が倒れた直後、厨房の采配はレオが引き継いだ。ブランドンが全体の動線を組み直し、フィーが人手を再配置した。避難民と屋敷の人間を混ぜて炊き出し班を作り、三交代制に切り替えた。今は無理なく回っている」
「レオが……」
「お前が鍛えた。判断も手際も問題ない。今日の昼には、彼が考案した芋と塩漬け肉の煮込みが出た。評判は良い」
胸の奥がじん、と熱くなった。
「シルヴァン村は」
「二日前に通信が復旧した。アンナを中心に公共食堂が稼働している。お前が送った非常食レシピを基に、村の備蓄を均等に割り振っているそうだ。病人も出ているが致命的な報告はない」
「アンナが……よかった」
「東の鉱山町ではヨハンが自主的に炊き出しを始めた。元々の店を基地にして、周辺の公共食堂と連携している」
ヨハンの顔が浮かぶ。強面でぶっきらぼうだが、スープにだけは真剣な男。
「燃料は」
「西地区の薪が不足気味だったが、公共食堂の若い連中が雪を掘って薪を回収した。ブランドンが配分を再計算した結果、今のところ致命的な穴はない」
「本当に、大丈夫なのですか」
「大丈夫でなければ、こうして話している余裕はない」
言い切り方があまりにも当然で、思わず笑いそうになった。
「あなたが全部回してくださったのですね」
「違う」
即答だった。
「俺は命令を出しただけだ。動いているのは、ここで学んだ者たちだ」
そこで一度言葉を切り、少し目を伏せる。
「そしてお前が作った仕組みが、俺やお前が倒れても動くようにできている。だから今、実際に動いている」
胸に重ねていた手に力が入った。
「でも、倒れたのは私の判断ミスです。もっと早く人に任せていれば」
「そうだ」
一切容赦がない。
「お前は致命的な判断ミスを犯した。自分の限界を無視した」
「ぐうの音も出ません」
「だが」
彼は椅子から少し身を乗り出した。声の温度がわずかに和らぐ。
「それ以外は正しかった」
「それ以外」
「公会を作ったことも、公共食堂を広げたことも、教えられる全てを教えたことも。あれがなければ、この寒波でどれだけの死者が出たか分からない。今、数字が示している」
「数字が」
「初期報告だが、例年の同規模の寒波に比べて、凍傷も肺炎も劇的に少ない。理由は明白だ。温かい食事と、根回しの行き届いた備蓄。お前が、何年も前から準備してきたものだ」
私は、掛け布団の上で指先を握りしめた。
「それを回しているのは、あなたの指示です」
「俺だけではない。レオも、アンナも、ヨハンも、無名の料理人も、村の女たちも、お前に教わった通りに動いている」
彼の視線が、まっすぐこちらを捉える。
「お前が守ろうとした者たちが、今度はお前の代わりに守っている。それが事実だ」
一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
*
「……ずるいです」
声が震えた。彼は首を傾げる。
「何がだ」
「そんな言い方をされてしまったら、もう泣くしかないではありませんか」
「泣くなとは言っていない」
「命令してくださいよ。『泣くな、見苦しい』って」
「それは嘘だから言わない」
正面からそう言われて、堪えていたものが決壊した。頬に温かいものが伝う。嗚咽が喉の奥で震えた。
「私、ずっと怖かったんです。一人で支えようとして、一人で勝手に限界を越えて、それでも『大丈夫』としか言えなくて」
「知っている」
「知っていて止めてくれなかったのですね」
「止めた。何度も言った」
「聞きませんでした」
「そうだ」
会話だけ聞けば責め合いのようだが、口調はどちらも穏やかだった。
「でも、今は違う」
私は涙を拭い、深く息を吸った。
「私がいなくても回る仕組みがあって、一緒に動いてくれる人たちがいて、あなたが全体を見ていてくれる。私が倒れても、世界は止まらなかった」
「止まらせるわけがない」
「だから、少しだけ安心しました」
言葉にしてみると、胸の奥の強張りがようやく解けていく。
「ようやく、任せてもいいのだと、思えました」
「今さらか」
「今さらです」
自分でも呆れるほど遅い。
「でも、今、気づけてよかった」
「遅くない」
彼はそう言い切った。
「お前が全てを背負う必要はない。仕組みがある。人がいる。俺もいる。そのために共に盟約を結んだ」
そこで一瞬言葉を切り、視線を逸らさずに付け足した。
「二度と、一人で勝手に限界まで走るな」
「努力します」
「約束だ」
「……約束します」
口にした瞬間、その約束が自分の中で確かな形を持った。
*
「それから」
アレス様が立ち上がり、サイドテーブルのノートを一冊手に取った。
「お前が倒れる直前に完成させた非常食レシピ集だ。全て各地に送った。評判は良い。無駄がなく分かりやすいと褒めていたぞ」
「誰が褒めてくれたのですか」
「レオ。アンナ。ヨハン。各村の責任者。それからダニエル軍医」
「たくさんですね」
「それだけ、お前のやったことが役に立っている」
彼はノートを軽く叩いた。
「だから安心して寝ろ。命令だ」
「また命令ですか」
「ここはそういう家だ」
少しだけ口元が緩んでいる。
「承知しました。公爵命令なら従います」
そう答えると、体から力が抜けた。布団の温かさが心地よい。先ほどまで胸につかえていた不安が、すっと静まっている。
「アレス様」
「何だ」
「ありがとうございます」
「義務を果たしただけだ」
彼はそう言いながら椅子に戻り、ランプの火を少し絞った。
私は目を閉じた。外ではまだ風が唸っている。しかしその音は、さっきまでのようには怖く聞こえなかった。屋敷のどこかで動き続ける人々の気配と、すぐ傍らに座る彼の気配が、はっきりと感じられたからだ。




