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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第218話 君が育てたもの

 熱はまだ完全には引いていなかったが、頭の芯にまとわりついていた重い靄は薄くなっていた。額の布は心地よい冷たさを保ち、喉の焼けるような渇きも、さっき飲んだスープで少し和らいでいる。

「気分はどうだ」

 ベッド脇の椅子に腰掛けたまま、アレス様が問いかけた。眠っている間、彼がどれほどそこにいたのかは分からない。ただ、その灰色の瞳の下に薄い影がある。

「だいぶ楽になりました。ご迷惑をおかけしてしまって」

「迷惑だと思うなら、二度とあの倒れ方はするな」

 静かな声なのに、言葉が容赦なく刺さる。

「……はい」

「まだ体を起こすな」

「でも、状況を確認しないと。避難所は、厨房は、公会の方は」

「全部把握している。お前の出番ではない」

「そういうわけには」

 言い切る前に、視線が重なった。彼は少しだけ目を細めた。

「レティシア。報告する」

 彼がそう前置きしたので、私は枕元で指先を握り、黙って耳を傾けた。



「まず、公爵家の避難所だ」

 アレス様は、執務室で報告を整理する時と同じ口調になった。

「お前が倒れた直後、厨房の采配はレオが引き継いだ。ブランドンが全体の動線を組み直し、フィーが人手を再配置した。避難民と屋敷の人間を混ぜて炊き出し班を作り、三交代制に切り替えた。今は無理なく回っている」

「レオが……」

「お前が鍛えた。判断も手際も問題ない。今日の昼には、彼が考案した芋と塩漬け肉の煮込みが出た。評判は良い」

 胸の奥がじん、と熱くなった。

「シルヴァン村は」

「二日前に通信が復旧した。アンナを中心に公共食堂が稼働している。お前が送った非常食レシピを基に、村の備蓄を均等に割り振っているそうだ。病人も出ているが致命的な報告はない」

「アンナが……よかった」

「東の鉱山町ではヨハンが自主的に炊き出しを始めた。元々の店を基地にして、周辺の公共食堂と連携している」

 ヨハンの顔が浮かぶ。強面でぶっきらぼうだが、スープにだけは真剣な男。

「燃料は」

「西地区の薪が不足気味だったが、公共食堂の若い連中が雪を掘って薪を回収した。ブランドンが配分を再計算した結果、今のところ致命的な穴はない」

「本当に、大丈夫なのですか」

「大丈夫でなければ、こうして話している余裕はない」

 言い切り方があまりにも当然で、思わず笑いそうになった。

「あなたが全部回してくださったのですね」

「違う」

 即答だった。

「俺は命令を出しただけだ。動いているのは、ここで学んだ者たちだ」

 そこで一度言葉を切り、少し目を伏せる。

「そしてお前が作った仕組みが、俺やお前が倒れても動くようにできている。だから今、実際に動いている」

 胸に重ねていた手に力が入った。

「でも、倒れたのは私の判断ミスです。もっと早く人に任せていれば」

「そうだ」

 一切容赦がない。

「お前は致命的な判断ミスを犯した。自分の限界を無視した」

「ぐうの音も出ません」

「だが」

 彼は椅子から少し身を乗り出した。声の温度がわずかに和らぐ。

「それ以外は正しかった」

「それ以外」

「公会を作ったことも、公共食堂を広げたことも、教えられる全てを教えたことも。あれがなければ、この寒波でどれだけの死者が出たか分からない。今、数字が示している」

「数字が」

「初期報告だが、例年の同規模の寒波に比べて、凍傷も肺炎も劇的に少ない。理由は明白だ。温かい食事と、根回しの行き届いた備蓄。お前が、何年も前から準備してきたものだ」

 私は、掛け布団の上で指先を握りしめた。

「それを回しているのは、あなたの指示です」

「俺だけではない。レオも、アンナも、ヨハンも、無名の料理人も、村の女たちも、お前に教わった通りに動いている」

 彼の視線が、まっすぐこちらを捉える。

「お前が守ろうとした者たちが、今度はお前の代わりに守っている。それが事実だ」

 一瞬、呼吸の仕方を忘れた。



「……ずるいです」

 声が震えた。彼は首を傾げる。

「何がだ」

「そんな言い方をされてしまったら、もう泣くしかないではありませんか」

「泣くなとは言っていない」

「命令してくださいよ。『泣くな、見苦しい』って」

「それは嘘だから言わない」

 正面からそう言われて、堪えていたものが決壊した。頬に温かいものが伝う。嗚咽が喉の奥で震えた。

「私、ずっと怖かったんです。一人で支えようとして、一人で勝手に限界を越えて、それでも『大丈夫』としか言えなくて」

「知っている」

「知っていて止めてくれなかったのですね」

「止めた。何度も言った」

「聞きませんでした」

「そうだ」

 会話だけ聞けば責め合いのようだが、口調はどちらも穏やかだった。

「でも、今は違う」

 私は涙を拭い、深く息を吸った。

「私がいなくても回る仕組みがあって、一緒に動いてくれる人たちがいて、あなたが全体を見ていてくれる。私が倒れても、世界は止まらなかった」

「止まらせるわけがない」

「だから、少しだけ安心しました」

 言葉にしてみると、胸の奥の強張りがようやく解けていく。

「ようやく、任せてもいいのだと、思えました」

「今さらか」

「今さらです」

 自分でも呆れるほど遅い。

「でも、今、気づけてよかった」

「遅くない」

 彼はそう言い切った。

「お前が全てを背負う必要はない。仕組みがある。人がいる。俺もいる。そのために共に盟約を結んだ」

 そこで一瞬言葉を切り、視線を逸らさずに付け足した。

「二度と、一人で勝手に限界まで走るな」

「努力します」

「約束だ」

「……約束します」

 口にした瞬間、その約束が自分の中で確かな形を持った。



「それから」

 アレス様が立ち上がり、サイドテーブルのノートを一冊手に取った。

「お前が倒れる直前に完成させた非常食レシピ集だ。全て各地に送った。評判は良い。無駄がなく分かりやすいと褒めていたぞ」

「誰が褒めてくれたのですか」

「レオ。アンナ。ヨハン。各村の責任者。それからダニエル軍医」

「たくさんですね」

「それだけ、お前のやったことが役に立っている」

 彼はノートを軽く叩いた。

「だから安心して寝ろ。命令だ」

「また命令ですか」

「ここはそういう家だ」

 少しだけ口元が緩んでいる。

「承知しました。公爵命令なら従います」

 そう答えると、体から力が抜けた。布団の温かさが心地よい。先ほどまで胸につかえていた不安が、すっと静まっている。

「アレス様」

「何だ」

「ありがとうございます」

「義務を果たしただけだ」

 彼はそう言いながら椅子に戻り、ランプの火を少し絞った。

 私は目を閉じた。外ではまだ風が唸っている。しかしその音は、さっきまでのようには怖く聞こえなかった。屋敷のどこかで動き続ける人々の気配と、すぐ傍らに座る彼の気配が、はっきりと感じられたからだ。

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