第217話 公爵の二つの顔
意識は、深く冷たい水の底からゆっくりと浮上するようだった。最初に感じたのは、自分の体を縛り付けるような倦怠感と、燃えるように熱い額に置かれた、ひやりとした心地よい冷たさだった。重いまぶたを、必死の思いでこじ開ける。
ぼやけた視界に映ったのは、見慣れた自室の豪奢な天蓋。そして、ベッドのすぐ脇に置かれた椅子の背もたれ。
「……ここは…?」
掠れた声は、自分のものではないように聞こえた。
「自分の部屋だ。動くな」
低く、硬質な声がすぐ側から降ってきた。ゆっくりと首を巡らせると、そこにアレス様が座っていた。彼はいつも着ている執務服ではなく、簡素なシャツ姿で、その手には私の額を冷やしていたのであろう濡れた布が握られている。
「アレス様…わたくしは…」
「倒れた。覚えていないのか」
「…はい。申し訳、ありません」
そうだ。子供にスープを渡そうとして、それで…意識が。
「わたくしがいない間、厨房は? 避難所は、どうなって…」
「黙れ。お前の心配事ではない」
彼の声は、有無を言わさぬ響きを持っていた。その時、控えめなノックと共に侍医が部屋に入ってきた。
「公爵夫人、お目覚めですな。お気分はいかがですかな」
「先生、わたくしは…」
「閣下、ご説明いたします」
侍医はアレス様に向き直り、厳粛な面持ちで口を開いた。
「診断は、極度の過労と、それに伴う高熱です。恐らくは、ご自身の魔力を無意識のうちに消耗し続けたことも、原因の一つかと」
「治るのか」アレス様の問いは、短く鋭かった。
「はい。命に別状はございません。ですが、しばらくは絶対安静が必要です」
「しばらくとは、具体的に何日だ」
「それは…公爵夫人の回復次第としか。少なくとも三、四日は熱が続くかと…」
「分かった。下がれ」
侍医は一礼すると、足早に部屋を出ていった。アレス様は立ち上がると、金の盥に張られた水で布を洗い、再び私の額にそっと置いてくれた。その手つきは、どこかぎこちなかった。
*
それからの数日間、私の意識は熱に浮かされ、眠りと覚醒の間を曖昧に行き来した。
昼間、私が眠っている間も、部屋の外の空気は常に張り詰めていた。扉の向こう側から、彼の「公爵」としての声が、途切れることなく聞こえてくる。
「ブランドン、西地区の燃料を再計算しろ! 誤差は許さん!」
「レオを呼べ! 炊き出しの指揮系統を再確認させ、報告を上げさせろ! 私が倒れたせいで滞っているなどという言い訳は聞かんぞ!」
「通信士! シルヴァン村への連絡はまだ復旧しないのか!」
その声は、氷のように冷徹で、一切の感情を排した、完璧な統治者の声だった。
時折、フィーが心配そうに扉の隙間から顔を覗かせた。
「閣下、奥様のお着替えを…」
「俺がやる。お前たちは厨房を頼む」
「しかし、そのようなことまで閣下のお手を煩わせるわけには…!」
「下がれと言ったのが聞こえなかったか」
彼の低い声に、フィーは悔しそうに唇を噛んで引き下がっていった。彼は、私の看病を誰にも任せようとはしなかった。
*
そして夜になると、屋敷は嵐の音だけが響く静寂に包まれた。日中の喧騒が嘘のように消え去り、侍従たちの足音も遠のく。その静寂の中で、彼は私の部屋を訪れた。
ある夜、私は不意に目を覚ました。高熱で喉がカラカラに乾いていた。ぼんやりとした視界の中で、ランプの灯りだけを頼りに、彼が一人で動いているのが見えた。
彼は、金の盥の水を替え、私の額の布を慣れない手つきで絞っている。その大きな手が、小さな布を扱うのにひどく苦労しているようだった。やがて、彼は部屋の隅に置かれた小型の魔導コンロに火を灯し、小さな鍋を温め始めた。私が避難所の病人用に考案した、滋養のあるスープの匂いが、部屋に満ちていく。
その全てを、彼は誰にも命じることなく、たった一人で黙々と行っていた。
「…アレス様…」
私がかすれた声で呼びかけると、彼の肩が微かに揺れた。
「目が覚めたか。ちょうどスープを温めてきたところだ」
彼は鍋を火から下ろすと、銀のスプーンを持ってベッドの脇へ戻ってきた。
「なぜ、あなたが…? フィーたちは…」
「…うるさい。黙って口を開けろ」
彼の言葉はぶっきらぼうだったが、その声にはいつものような厳しさはなかった。私は、重い体をゆっくりと起こそうとした。彼がすぐに背中に手を回し、その大きな体で私を支えてくれる。
「…なぜ、そこまで…してくださるのですか」
熱で潤んだ目で彼を見上げると、彼は一瞬だけ、視線を彷徨わせた。そして、私から顔をそむけるようにして、ぽつりと呟いた。
「……パートナーの機能維持は、共同統治者としての、私の義務だ」
それは、どこまでも彼らしい、合理的で、不器用な言い訳だった。しかし、私の背中を支える彼の腕の力強さと、スープをすくうために私に向けられたその灰色の瞳の奥に宿る、隠しようのない深い憂慮の色が、彼の本当の気持ちを何よりも雄弁に物語っていた。彼は、義務だと言いながら、銀のスプーンを私の口元へと運ぶ。その大きな手が、ほんの少しだけ震えていることに、私は気づかないふりをした。




