第216話 切れた糸
何日が過ぎたのか、もう分からなかった。窓の外は常に白と黒の狂乱が続き、昼と夜の境界さえ曖昧になっていた。アレスティード公爵家の厨房だけが、眠らない心臓のように絶え間なく動き続け、この巨大な方舟に温かい血を送り続けている。
「奥様、次のスープの準備ができました」
「ありがとう、レオ。すぐに配膳の準備を。病人用の滋養スープは、私が直接運びます」
私は、湯気の立つ寸胴鍋から木のお椀へと、琥珀色の液体を慎重に注いだ。厨房に立ち込める温かい香りと湿気が、かろうじてここがまだ人間の世界であることを教えてくれる。
「奥様、お願いです。少しだけでいいですから、横になってください」
侍女長のフィーが、私の腕を取り、懇願するような声を上げた。その顔には、隠しようのない深い疲労と心配の色が浮かんでいる。
「もう、丸二日も眠っておいででないのですよ。そのお顔も、まるで蝋燭のようですわ」
「大袈裟ね、フィー」
私は、努めて明るい声で笑ってみせた。
「大丈夫よ。今が一番大事な時なのだから。ここで私が休むわけにはいかないでしょう?」
「ですが、このままでは奥様が先に倒れてしまいます! 私たちがいます。レオもいます。奥様が信じて育てた者たちが、ここにいるではありませんか!」
「ええ、分かっているわ。あなたたちを、誰よりも信頼している」
私は、フィーの肩を優しく叩いた。
「だからこそ、もう少しだけ頑張らせてちょうだい。ね?」
その言葉に、フィーは反論できずに唇を噛んだ。私が一度決めたことを、覆さないと知っているからだ。私はトレーに数個のお椀を乗せると、避難民で埋め尽くされた長い廊下へと足を踏み出した。
*
屋敷の壮麗な廊下は、もはや元の姿を留めていなかった。壁際には、毛布にくるまった人々が身を寄せ合い、その表情は疲労と不安で暗く沈んでいる。私は、一人一人に声をかけながら、ゆっくりとその間を歩いていった。
「具合はいかがですか。寒くはありませんか」
「奥様…。もったいのうございます」
老人が、皺だらけの手を合わせて拝むように頭を下げる。私はその手にそっと触れた。
「気になさらないで。あなたのその咳、少し気になりますね。後で薬湯をお持ちします」
私が触れると、老人の冷え切っていた手のひらに、心なしか温もりが戻ったように見えた。私の持つ「温導質」の力が、無意識のうちに働いているのかもしれない。だが、今の私には、それを制御する余裕などなかった。
「坊や、お母さんはどこ?」
隅の方で一人、膝を抱えて震えている小さな子供を見つけ、私はその前に屈み込んだ。
「……あっち。熱が出た人を、看病してる」
「そう。偉いわね、一人で待っていて。さあ、これを飲んで。すぐに体が温まるから」
私が差し出したスープを、子供はこくりと頷いて受け取った。その顔に、ほんの少しだけ血の気が戻る。
「ありがとう、奥様」
「どういたしまして」
立ち上がった瞬間、私の視界が、ぐらりと揺れた。壁の肖像画が、一瞬だけ二重に見える。
「……疲れているのかしら」
私は自分にだけ聞こえる声で呟き、軽く頭を振った。気のせいだ。寝不足のせいだろう。私が倒れるわけにはいかない。その強すぎる責任感だけが、鉛のように重い私の体を、無理やり前に進ませていた。
*
私は、避難所の最も奥、大広間へと続く廊下の突き当たりで、壁に寄りかかって震えている小さな兄妹を見つけた。五歳くらいの兄が、さらに幼い妹を、自分の薄い体で必死に庇っている。
「坊や、寒いの?」
「……妹が。妹が、ずっと震えてるんだ」
兄は、私を警戒するように睨みつけながら答えた。その瞳には、歳不相応の強い光が宿っている。
「そう。二人とも、よく頑張ったわね。これを飲んで温まりなさい。あなたたちのために、特別に栄養のあるものを持ってきたのよ」
私はトレーに残っていた最後のお椀を手に取り、その前に膝をついた。その時、すぐ近くの扉が開き、アレス様が執務室から姿を現した。彼の視線が、私と子供たちに注がれる。
「レティシア」
彼の声は、いつもより低く、硬かった。
「お前、少し休め。顔色が悪い」
「平気ですわ、アレス様。この子たちに、このスープを飲ませたら…すぐに戻りますから」
私は虚勢を張って笑顔を作ろうとしたが、顔の筋肉がうまく動かなかった。視界が、また霞む。耳の奥で、キーンという高い音が鳴り響いている。
大丈夫。私はまだ、やれる。
私は自分自身にそう言い聞かせ、震える手で、妹の方へお椀を差し出した。
「さあ、これを飲んで、温まるのよ」
その、子供の小さな手に、お椀が渡る、その直前だった。
私の視界が、ぐにゃりと歪んだ。子供の顔が、二重にも、三重にも見える。周囲の音が、まるで水の中にいるかのように遠くなっていく。
ああ、駄目だ。
そう思った時には、もう遅かった。私の指から、全ての力が抜け落ちていく。
カシャン、という陶器が砕ける甲高い音。熱いスープが、冷たい大理石の床にぶちまけられる。
「奥様!」
「どうしたんだ!」
周囲の避難民たちの驚きの声が、遠くで聞こえた。私の体は、もう私の意志には従わない。糸が切れた操り人形のように、ゆっくりと、前のめりに傾いでいく。
最後に私の目に映ったのは、普段の氷のような冷静さを全て失い、見たこともないほど焦燥に駆られた表情で、こちらへ駆け寄ってくるアレス様の顔だった。
「レティシア!」
彼の絶叫が、遠のいていく私の意識の中で、最後の音として響き渡った。




