表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

217/244

第216話 切れた糸

 何日が過ぎたのか、もう分からなかった。窓の外は常に白と黒の狂乱が続き、昼と夜の境界さえ曖昧になっていた。アレスティード公爵家の厨房だけが、眠らない心臓のように絶え間なく動き続け、この巨大な方舟に温かい血を送り続けている。

「奥様、次のスープの準備ができました」

「ありがとう、レオ。すぐに配膳の準備を。病人用の滋養スープは、私が直接運びます」

 私は、湯気の立つ寸胴鍋から木のお椀へと、琥珀色の液体を慎重に注いだ。厨房に立ち込める温かい香りと湿気が、かろうじてここがまだ人間の世界であることを教えてくれる。

「奥様、お願いです。少しだけでいいですから、横になってください」

 侍女長のフィーが、私の腕を取り、懇願するような声を上げた。その顔には、隠しようのない深い疲労と心配の色が浮かんでいる。

「もう、丸二日も眠っておいででないのですよ。そのお顔も、まるで蝋燭のようですわ」

「大袈裟ね、フィー」

 私は、努めて明るい声で笑ってみせた。

「大丈夫よ。今が一番大事な時なのだから。ここで私が休むわけにはいかないでしょう?」

「ですが、このままでは奥様が先に倒れてしまいます! 私たちがいます。レオもいます。奥様が信じて育てた者たちが、ここにいるではありませんか!」

「ええ、分かっているわ。あなたたちを、誰よりも信頼している」

 私は、フィーの肩を優しく叩いた。

「だからこそ、もう少しだけ頑張らせてちょうだい。ね?」

 その言葉に、フィーは反論できずに唇を噛んだ。私が一度決めたことを、覆さないと知っているからだ。私はトレーに数個のお椀を乗せると、避難民で埋め尽くされた長い廊下へと足を踏み出した。



 屋敷の壮麗な廊下は、もはや元の姿を留めていなかった。壁際には、毛布にくるまった人々が身を寄せ合い、その表情は疲労と不安で暗く沈んでいる。私は、一人一人に声をかけながら、ゆっくりとその間を歩いていった。

「具合はいかがですか。寒くはありませんか」

「奥様…。もったいのうございます」

 老人が、皺だらけの手を合わせて拝むように頭を下げる。私はその手にそっと触れた。

「気になさらないで。あなたのその咳、少し気になりますね。後で薬湯をお持ちします」

 私が触れると、老人の冷え切っていた手のひらに、心なしか温もりが戻ったように見えた。私の持つ「温導質」の力が、無意識のうちに働いているのかもしれない。だが、今の私には、それを制御する余裕などなかった。

「坊や、お母さんはどこ?」

 隅の方で一人、膝を抱えて震えている小さな子供を見つけ、私はその前に屈み込んだ。

「……あっち。熱が出た人を、看病してる」

「そう。偉いわね、一人で待っていて。さあ、これを飲んで。すぐに体が温まるから」

 私が差し出したスープを、子供はこくりと頷いて受け取った。その顔に、ほんの少しだけ血の気が戻る。

「ありがとう、奥様」

「どういたしまして」

 立ち上がった瞬間、私の視界が、ぐらりと揺れた。壁の肖像画が、一瞬だけ二重に見える。

「……疲れているのかしら」

 私は自分にだけ聞こえる声で呟き、軽く頭を振った。気のせいだ。寝不足のせいだろう。私が倒れるわけにはいかない。その強すぎる責任感だけが、鉛のように重い私の体を、無理やり前に進ませていた。



 私は、避難所の最も奥、大広間へと続く廊下の突き当たりで、壁に寄りかかって震えている小さな兄妹を見つけた。五歳くらいの兄が、さらに幼い妹を、自分の薄い体で必死に庇っている。

「坊や、寒いの?」

「……妹が。妹が、ずっと震えてるんだ」

 兄は、私を警戒するように睨みつけながら答えた。その瞳には、歳不相応の強い光が宿っている。

「そう。二人とも、よく頑張ったわね。これを飲んで温まりなさい。あなたたちのために、特別に栄養のあるものを持ってきたのよ」

 私はトレーに残っていた最後のお椀を手に取り、その前に膝をついた。その時、すぐ近くの扉が開き、アレス様が執務室から姿を現した。彼の視線が、私と子供たちに注がれる。

「レティシア」

 彼の声は、いつもより低く、硬かった。

「お前、少し休め。顔色が悪い」

「平気ですわ、アレス様。この子たちに、このスープを飲ませたら…すぐに戻りますから」

 私は虚勢を張って笑顔を作ろうとしたが、顔の筋肉がうまく動かなかった。視界が、また霞む。耳の奥で、キーンという高い音が鳴り響いている。

 大丈夫。私はまだ、やれる。

 私は自分自身にそう言い聞かせ、震える手で、妹の方へお椀を差し出した。

「さあ、これを飲んで、温まるのよ」

 その、子供の小さな手に、お椀が渡る、その直前だった。

 私の視界が、ぐにゃりと歪んだ。子供の顔が、二重にも、三重にも見える。周囲の音が、まるで水の中にいるかのように遠くなっていく。

 ああ、駄目だ。

 そう思った時には、もう遅かった。私の指から、全ての力が抜け落ちていく。

 カシャン、という陶器が砕ける甲高い音。熱いスープが、冷たい大理石の床にぶちまけられる。

「奥様!」

「どうしたんだ!」

 周囲の避難民たちの驚きの声が、遠くで聞こえた。私の体は、もう私の意志には従わない。糸が切れた操り人形のように、ゆっくりと、前のめりに傾いでいく。

 最後に私の目に映ったのは、普段の氷のような冷静さを全て失い、見たこともないほど焦燥に駆られた表情で、こちらへ駆け寄ってくるアレス様の顔だった。

「レティシア!」

 彼の絶叫が、遠のいていく私の意識の中で、最後の音として響き渡った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ