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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第215話 開かれた門

 黒い風が吹き荒れて、もはや、日付の感覚は曖昧になっていた。窓の外は常に白と黒の狂乱で、昼も夜も区別がつかない。屋敷の中だけが、かろうじて人間の秩序を保つ、巨大な方舟のようだった。

「西地区の備蓄、残り七日分です。燃料の消費が想定を上回っています」

「シルヴァン村からの定時連絡、途絶えました。吹雪で魔力通信が不安定です」

 アレス様の執務室は、眠らない司令部と化していた。地図の上に置かれた駒が、少しずつ悪い方へと動かされていく。それでも、まだ希望はあった。私のレシピを元にした炊き出しが、領内各地で孤立した人々の命を、かろうじて繋ぎとめていたからだ。



 その日の夕暮れ時、膠着した戦況を破るように、屋敷の荘厳な城門を、何者かが激しく叩く音が響き渡った。それは、儀礼的なノックなどではない。まるで助けを求める獣の咆哮のような、必死の叩扉音だった。

「何事だ!」

 休憩室で仮眠を取っていた衛兵たちが、慌ただしく駆けつけていく。私も、近くの廊下でフィーと物資の再分配について打ち合わせていた足を止め、息を呑んで成り行きを見守った。

 やがて、分厚い扉が、軋むような音を立てて内側へ少しだけ開かれる。その隙間から、雪と氷の塊のようになった衛兵の一人が、転がり込むようにして司令部へと駆け込んできた。

「ご報告します! 城門前に、多数の避難民が!」

 衛兵の切迫した声に、執務室から出てきたアレス様とブランドンが合流する。

「どこの者たちだ」とアレス様が低く問うた。

「領都近郊の、ホロウ村の村人たちです! 村の備蓄が完全に底をつき、この吹雪の中を、命からがら…!」

 衛兵は言葉を詰まらせた。

「半数近くが凍傷で動けず、子供たちは皆、衰弱しきっております!」

「なんと…」

 ブランドンが、厳しい顔で呻いた。

「ホロウ村の備蓄が、これほど早く尽きるとは。予測が甘かったか」

「ブランドン、城内の備蓄は」

「現状、屋敷の者と衛兵、そしてすでに保護している役人たちの家族を合わせ、春までギリギリです。これ以上、受け入れれば…」

 ブランドンの言葉は、どこまでも正論だった。執事長として、この方舟の沈没を防ぐのが彼の最大の責務だ。無計画な同情は、全員を共倒れさせるだけ。その場の誰もが、その冷たい事実を理解していた。

 アレス様は、何も言わなかった。ただ、じっと吹雪の音が響く扉の向こうを見つめている。彼の横顔に、統治者としての冷徹な計算と、一人の人間としての苦悩が、せめぎ合っているのが分かった。

 数秒間の、永遠のように長い沈黙。やがて、彼はゆっくりと、しかし、一切の迷いのない声で、命令を下した。

「門を開けろ」

「閣下!」ブランドンが、驚愕の声を上げた。「しかし、それでは備蓄が!」

「構わん」

 アレス様は、ブランドンの懸念を、強い視線で制した。

「全ての門を開け、助けを求める者たちを、一人残らず受け入れろ」

 彼は、そこにいる全ての者に聞こえるよう、きっぱりと宣言した。

「この屋敷は、今日から、民の砦となる」



 その言葉は、絶対的な決定だった。ブランドンは一瞬だけ唇を噛んだが、次の瞬間には、完璧な執事長として深く一礼した。

「…御意に」

 彼はすぐさま踵を返し、衛兵や侍従たちに、避難民受け入れのための具体的な指示を、矢継ぎ早に飛ばし始めた。

 私は、アレス様の横顔を見つめた。彼は、おそらく最も困難な道を選んだのだ。その覚悟を、私は無駄にはしない。

「アレス様、わたくしは厨房へ参ります」

「ああ」

「この砦には、温かい食事と、それを作るための心臓が必要ですわ」

 彼は、私の目を見て、静かに頷いた。それだけで、十分だった。私は彼に背を向けると、自分の戦場へと向かって駆け出した。



 公爵家の広大な厨房は、避難民受け入れの報に、動揺と不安が渦巻いていた。

「聞いたかい? 村人たちを全員、屋敷に入れるそうだ」

「正気なのか? ただでさえ食料は切り詰めているというのに」

「俺たちの食い扶持は、どうなるんだ…」

 料理人たちの囁き声が、冷たい壁に反響する。その、渦の中心に、私は立った。

「全員、顔を上げなさい!」

 私の、凛とした声が、厨房の空気を切り裂いた。不安げな視線が、一斉に私へと集まる。私は、彼ら一人一人の顔を、ゆっくりと見渡した。

「聞きましたね。この屋敷は、今この時から、砦となりました。そして、この厨房は、その砦の心臓部となります」

 私は、そこで一度言葉を切った。

「これから、私たちの仕事は、ただ食事を作ることではありません。この屋敷に避難してきた、全ての人々の命と、そして、その希望を、守り抜くことです!」

 私の言葉に、彼らの瞳の色が、少しずつ変わっていくのが分かった。不安が消え、代わりに、使命感と、かすかな誇りの火が灯り始める。

「フィー、あなたには物資の管理を。ゲルト、あなたは火の番を。レオが戻り次第、調理の班分けをします! 良いですね!」

「「「はい、奥様!」」」

 彼らの、力強い返事が、厨房の天井を震わせた。その時、すでに屋敷の玄関ホールの方から、人々の喧騒と、子供の泣き声が聞こえ始めていた。

 壮麗な大理石の広間や、美しいタペストリーが飾られた長い廊下が、毛布にくるまった避難民たちで埋め尽くされていく。この日から、アレスティード公爵家の厨房は、眠らない前線基地となった。

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