表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

215/237

第214話 温もりのリレー

 通信士が最後の言葉を読み上げ終えると、執務室には再び嵐の音だけが戻ってきた。魔導具の淡い光が消え、まるで世界から切り離されたかのような静寂が私たちを包む。私の書いた魔法の呪文は、果たして吹雪の向こう側へ無事に届いたのだろうか。

「あとは、信じるしかありませんわね」

 私が誰に言うともなく呟くと、地図を睨みつけていたアレス様が静かに顔を上げた。

「信じるのは神の仕事だ。俺たちは結果を待つ」

 彼の声はいつも通り硬質だったが、その灰色の瞳の奥に、私と同じ祈りのような色が宿っているのを、私は見逃さなかった。絶望的な数字が並ぶ地図の上で、私たちのささやかな反撃が始まるのを、ただ息を殺して待つしかなかった。



 深い雪に閉ざされたシルヴァン村の公共食堂は、凍てつくような寒さと絶望に満ちていた。備え付けられた通信魔導具が、抑揚のない声で奇妙な献立を読み上げ終えた時、集まっていた村人たちの間に広がったのは、希望ではなく深い困惑だった。

「砂糖をひとつまみ、だと? 豆を戻すのに、貴重な砂糖を使うというのか」

「米のとぎ汁で肉を洗うなんて、聞いたこともないぞ。罰当たりな」

 壁際にうずくまっていた老人たちが、不信の声を上げる。食堂の運営を任されていたアンナも、そのあまりに常識外れな調理法に唇を噛んでいた。しかし、彼女の脳裏には、私から直接指導を受けた日々の記憶が鮮やかに蘇っていた。

「やるわよ」

 アンナの決意に満ちた声が、ざわめきを制した。

「これは公爵夫人からの命令じゃない。私たちが、この冬を生き延びるための知恵よ!」

 彼女はためらう村の女性たちに檄を飛ばすと、自ら率先して麻袋から乾いた豆をすくい上げた。

「馬鹿なことを。どうせ貴族の気休めだ。こんな乾いた豆が、腹の足しになるものか」

 食堂の隅で腕を組んでいた一人の若者が、吐き捨てるように言った。村長の孫のトマだ。彼は、妹を抱いて寒さに震えながら、アンナたちの動きを冷ややかに見つめている。

 だが、アンナは彼の言葉に耳を貸さなかった。彼女は、レシピに書かれた通り、ぬるま湯にほんの少しの砂糖を溶かし、そこに豆を浸していく。やがて、食堂の中に、か細くも温かい湯気が立ち上り始めた。大鍋で煮込まれ始めたスープが、野菜と干し肉の、香ばしい匂いをあたりに放ち始める。

 その匂いに、最初に反応したのは子供たちだった。トマの腕の中にいた妹が、くんくんと鼻を鳴らし、小さな声で「おなかすいた」と呟く。

 やがて、アンナが最初の一杯を木のお椀によそい、その少女の前に差し出した。

「さあ、熱いから気をつけてお食べ」

 少女は、おずおずとそれを受け取ると、夢中でスープを啜り始めた。そして、その顔に、この数日間誰もが見ることのなかった、ぱあっと明るい笑顔が花のように咲いた。

「…おいしい!」

 その光景を、トマは言葉もなく見ていた。貴族の気休めだと吐き捨てたスープが、今、確かに妹の体を温め、その顔に笑顔を取り戻させている。

 彼は、ゆっくりと立ち上がった。そして、アンナの背後に回ると、ぶっきらぼうに、しかしはっきりとした声で言った。

「…薪なら、俺が割ってやる。火を絶やすなよ」

 驚いて振り返ったアンナに、彼は視線を合わせようともせず、壁に立てかけてあった斧を手に取った。

「ああ見えても、力仕事は得意なんでな」

 ぶっきらぼうな彼の言葉に、アンナは満面の笑みで頷いた。

「ええ、任せて!」

 凍てついていた村の共同体が、一杯のスープをきっかけに、再び温かい鼓動を取り戻し始めた瞬間だった。



 同じ頃、領都の路地裏にある『スープ屋ヨハン』の前では、頑固な店主が一人の客もなく静まり返った店に、ため息をついていた。彼の店の小さな通信魔導具もまた、公爵夫人からの奇妙なレシピを確かに受信していた。

「…ちっ、商売どころじゃねえな、こりゃ」

 ヨハンは悪態をつくと、店の入り口に「本日休業」の札をぶっきらぼうに掛けた。それから、店の奥から一番大きな寸胴鍋を引っ張り出し、店の前の軒下に運び出したのだ。

「おい、ヨハンさん。正気かい」

 向かいのパン屋の主人が、店の隙間から顔を覗かせた。

「こんな吹雪の日に店を開けたって、客なんか一人も来やしないぜ」

「店は開けねえよ」とヨハンは答えた。「炊き出しをやるんだ。銅貨もいらねえ」

「はあ!? あんた、自分の店の備蓄が無限にあるとでも思ってんのかい! 自分たちが干上がっちまうぞ!」

 パン屋の主人の忠告は、もっともだった。しかし、ヨハンは鍋を磨く手を止めずに、静かに言った。

「公爵夫人に教わったんだよ。一杯の温かいスープが、人の腹だけじゃなく、凍えた心まで温めるってことをな。俺にできるのは、これくらいしかねえんだ」

 彼は、ふと顔を上げてパン屋の主人を見た。

「なあ、頼みがある。あんたんとこの、売れ残って固くなったパン、少しでいい。分けてくれねえか。スープに浸せば、立派なご馳走になる」

 その、あまりにも馬鹿正直な眼差しに、パン屋の主人は呆れたように、しかし、どこか楽しそうに、大きく息を吐いた。

「…しょうがねえなあ。うちの在庫も全部持ってってやるよ。どうせ腐らせるよりゃ、ずっといい」

 彼は店の中へ戻ると、すぐに大きな麻袋いっぱいのパンを抱えてきた。一人の男の小さな善意が、凍てついた街角で、確かに隣の心へと伝播していた。



 公爵家の執務室では、断片的に入ってくる通信報告が、張り詰めた空気を少しずつ変え始めていた。

「シルヴァン村より断片的通信! 炊き出しを開始した模様! 村人、協力的とのことです!」

 通信士の報告に、ブランドンが地図の上のシルヴァン村の駒に、小さく赤い印をつける。

「領都の東地区監視隊より報告! 路地裏の『スープ屋ヨハン』が自主的に炊き出しを開始! 周辺住民の避難所として機能しているとの情報が入りました!」

 また一つ、地図の上に希望の灯火がともる。その報告を聞いていた私の目から、熱いものが一筋、頬を伝った。

「……どうした」

 私の様子に気づいたアレス様が、低い声で尋ねた。

「いいえ。ただ…」私は、涙を隠そうともせず、彼を見つめた。「わたくしが育てたものが、わたくしのいない場所で、ちゃんと戦っているのだと、そう思ったら…」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ