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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第213話 塩漬け肉と干し豆の魔法

 ブランドンが読み上げた絶望的な数字だけが、そこにいる全員の耳の奥に、冷たい鉛のようにこびりついている。

「…以上です。このままでは、餓死者、凍死者が出るのは時間の問題かと」

 その、あまりにも冷静な報告の終わりを、私は地図の上に広げられた羊皮紙を見つめたまま聞いていた。窓の外で荒れ狂う風の音が、まるで世界の終わりを告げるように低く響いている。

「アレス様、わたくしは厨房へ参ります」

 私の静かな声に、地図を睨みつけていたアレス様がゆっくりと顔を上げた。その灰色の瞳には、いまだ何の感情も浮かんでいない。

「……何をするつもりだ」

「わたくしたちの武器は、城壁でも剣でもありません。温かい食事です」

 私は、彼の目をまっすぐに見つめ返した。

「今こそ、それを使う時ですわ」

「備蓄には限りがある。無駄にするな」

「ええ、承知しております。だからこそ、一粒の豆、一片の肉も無駄にせず、最も多くの人間の命と心を支えるための食事を考えます」

 私の言葉に嘘はなかった。彼の視線は、私の覚悟の奥底を探るように、数秒間、私を射抜いていた。やがて、彼は短く、息を吐いた。

「……分かった。好きにやれ」

 その許可を得ると、私は彼に一礼し、静かに執務室を後にした。ここが彼の戦場なら、私の戦場は、ここではない。



 公爵家の広大な厨房は、まるで巨大な倉庫のようだった。床には、領内各地の備蓄倉庫から緊急で運び込まれた、非常食の麻袋や木箱が、無秩序に積み上げられている。

「こ、これは……」

 厨房の料理人たちが、その光景を前に呆然と立ち尽くしていた。彼らの目線の先にあるのは、山のような塩漬け肉と、干からびた豆や野菜、そして石のように固くなった黒パンばかり。新鮮な食材など、何一つ見当たらない。

「奥様、これではまともな食事など……」

 侍女長のフィーが、青ざめた顔で私の隣に立った。彼女の声は、絶望でかすかに震えている。

「いいえ、フィー」

 私は、積み上げられた麻袋の一つを、自分の手で解いた。中から、乾ききった豆が、からからと乾いた音を立ててこぼれ落ちる。

「これ『で』やるのよ。見ていなさい。絶望を希望へと変換する魔法を、今からお見せします」

 私は振り返り、呆然とする料理人たちを見渡した。

「全員、手伝ってください! まず、一番大きな鍋にぬるま湯を用意して。そして、砂糖をひとつまみ入れるのを忘れずに!」

「さ、砂糖でございますか? 豆を戻すのに?」

 若い料理人の一人が、信じられないといった顔で問い返す。

「ええ。浸透圧の作用で、ただの水で戻すよりずっと早く、ふっくらと柔らかくなるの。それから、塩漬け肉は全て薄切りにしてください。米のとぎ汁が残っていたら、それに浸けておいてちょうだい」

「とぎ汁に? そのようなもので、大切な食料を汚してもよろしいので?」

 古参の料理長が、眉をひそめた。

「大丈夫です。塩気を穏やかに抜きながら、肉の臭みも取ってくれる。前世の知恵、というものよ」

 私の、有無を言わさぬ口調と、次々と飛ぶ具体的な指示に、厨房の空気は少しずつ、絶望から戸惑い、そしてかすかな期待へと変わり始めていた。



 私の頭の中では、前世の記憶が猛スピードで回転していた。一人暮らしの安アパートで、限られた予算と食材でいかに美味しく、腹を満たすか。徹夜続きのプロジェクトの合間に、ネットの隅で拾い読みした、料理の豆知識や裏技の数々。それらが今、この世界で、何百、何千という人々の命を救うための武器となっていた。

「固いパンは、おろし金で細かく削って粉にしなさい! それはスープのとろみ付けや、焼き物の香ばしい衣になります!」

「塩抜きした肉のゆで汁は、絶対に捨てないで! 香りの強いハーブを少し加えれば、それだけで立派な出汁になるのですから!」

 私は、料理人たちと共に試作を繰り返した。干し豆は一度乾煎りしてから煮込むことで、驚くほど香ばしいポタージュになった。塩抜きした肉は、細かく刻んで野菜くずと一緒に炒め、黒パンの粉を繋ぎにして、小さな団子にした。それをスープに入れれば、満足感のある立派な一品になる。

 私は、それらの調理法を、羊皮紙の上に、誰が読んでも分かる簡潔な言葉で、一つ一つ書き留めていった。専門用語は使わない。分量も「指でひとつまみ」や「スプーン一杯」といった、どんな場所でも再現できる表現を心がけた。それは、ただの調理法ではない。絶望を、希望へと変換するための、魔法の呪文だった。



 数時間後、数種類のレシピを書きつけた羊皮紙を手に、私は再びアレス様の執務室へと駆け込んだ。部屋の空気は、依然として張り詰めたままだ。

「アレス様、完成しました! 通信魔導具をお借りします!」

 私が机の上に叩きつけるように置いた羊皮紙を、彼は一瞥し、その眉がかすかに動いた。そこに書かれているのが、ただの料理の献立ではないことを、彼は瞬時に理解したのだろう。

「……通信士!」

 アレス様の鋭い声が飛んだ。

「これをそのまま読み上げ、領内全域の公共食堂及び各拠点の責任者へ、一斉送信しろ!」

「はっ! しかし閣下、これは料理の作り方のようですが……?」

 通信士は、羊皮紙の内容を見て戸惑いの声を上げた。

「命令だ」

 アレス様は、短く、しかし有無を言わせぬ響きで言い切った。

「一言一句違えずに伝えろ。これは、我々の反撃の狼煙だ」

「は、はい! 承知いたしました!」

 通信士は、弾かれたように魔導具の前に座り直すと、緊張した面持ちで、私の書いた羊皮紙の最初の行を、読み上げ始めた。

「これより、公爵夫人レティシア様発案、非常時調理法を通達する! 第一号、干し豆の戻し方! 水ではなく、砂糖をひとつまみ加えたぬるま湯を使用すること! 繰り返す、砂糖をひとつまみ加えた……」

 彼の声が、魔導具の放つ淡い光と共に、魔力の波に乗って吹雪の向こう側へと飛んでいく。閉ざされた領内の、孤立した村や町へ。凍える人々の元へ。この、温かい魔法の呪文が、どうか届きますようにと、私は固く目を閉じて、祈っていた。

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