第212話 閉ざされた道
非常事態宣言が発令されてから、屋敷の中はまるで別の生き物になったかのようだった。侍従たちの足音は常に小走りで、廊下の隅々まで張り詰めた緊張が満ちている。私も公会本部と屋敷の厨房を日に何度も往復し、備蓄食料の最終確認と、来るべき籠城戦に備えた調理計画の策定に忙殺されていた。
「奥様、西地区の備蓄倉庫より最終報告です! 小麦粉の在庫、予測より三パーセントの減少!」
「原因は? 湿気による劣化よ、それとも鼠害?」
「いえ、輸送時の計量ミスかと思われます! 申し訳ありません!」
「謝っている暇はありません。すぐに代替品を算出してください。豆類ならまだ余裕があるはずです!」
私の戦場は、数字と食材が乱舞する帳簿の上にあった。しかし、本当の敵はまだ、その姿を見せてはいなかった。
*
三日後の昼過ぎ、それは何の前触れもなくやってきた。
空から、光が消えたのだ。
先ほどまで射し込んでいたはずの冬の弱い日差しが、まるで分厚いカーテンを引かれたように、突然かき消された。窓の外に目をやると、地平線の彼方から、不気味なほど黒い雲が、恐ろしい速さでこちらへ迫ってくるのが見えた。
「……来たか」
隣の書斎から聞こえたアレス様の低い声は、覚悟を決めた男のそれだった。次の瞬間、窓ガラスがガタガタと激しく震え、屋敷全体が唸るような風の音に包まれた。叩きつけるように降り始めた雪は、すぐに猛吹雪へと姿を変え、視界はあっという間に真っ白な闇に閉ざされた。
黒い風。古文書に記されただけの、単なる伝承ではなかった。それは今、現実の脅威として、私たちの領地に牙を剥いていた。
*
アレス様の執務室は、完全に戦場の司令部と化していた。部屋の中央には領地全体の巨大な地図が広げられ、その周りを数人の通信士たちが囲んでいる。彼らの前に置かれた通信魔導具が、次々と不吉な光を放っては、絶望的な報告を吐き出していた。
「閣下! 東部セドリック町より入電! 街道が雪で完全に埋まり、通行不能との報告!」
通信士の一人が、悲鳴のような声を上げた。
「負傷者はいるか」
地図を睨みつけたまま、アレス様が鋭く問う。
「いえ、現在のところは…しかし、物資を運んでいた荷馬車隊が完全に立ち往生している模様です!」
「ブランドン!」
「はっ!」
「近くの駐屯部隊に連絡。人命救助を最優先させろ。荷は捨てても構わん」
彼の命令は、一切の無駄なく、簡潔だった。ブランドンは力強く頷くと、別の通信士へ矢のような指示を飛ばす。
しかし、悪い知らせはそれで終わりではなかった。
「閣下! 山間部の通信網に広範囲の障害発生! シルヴァン村との連絡が、先ほどから完全に途絶しております!」
別の通信士からの報告に、部屋の空気が凍りついた。
「…くそっ、一番恐れていた事態か」
アレス様が、低く悪態をつく。私も思わず息を呑んだ。あの村は、最も孤立しやすく、備蓄も潤沢ではない。
「アレス様…」
「騒ぐな。パニックが一番の敵だ」
彼は私の不安を察したように、短く制した。その灰色の瞳は、少しも揺らいではいない。彼はこの絶望的な状況の、さらにその先を見据えていた。
「ブランドン!」
「ここに」
息つく間もなく、彼は次の命令を下す。
「各地区の備蓄量と消費予測を報告しろ。正確な数字をだ。希望的観測は一切いらん」
ブランドンは、アレス様の厳しい視線を正面から受け止めると、静かに頷いた。
「…承知いたしました。こちらが、今朝の時点でまとめた最終報告です」
彼は、脇に抱えていた分厚い羊皮紙の束を、地図の上に広げた。そこには、びっしりと書き込まれた数字の羅列が、まるで黒い虫の大群のように蠢いていた。
ブランドンは、その絶望的な数字の羅列を、指でなぞりながら、いつもと変わらない、どこまでも冷静な声で報告を始めた。
「現在の備蓄量と、この異常な気温低下が続いた場合の燃料消費量を計算しますと…」
彼は一度だけ、言葉を切った。そして、まるで死刑宣告でもするかのように、静かに続けた。
「春まで備蓄が持たない村が、十三。町が、四つ。このままでは、餓死者、凍死者が出るのは時間の問題かと…」
その、あまりにも冷静な分析が、この事態の本当の深刻さを、何よりも雄弁に物語っていた。執務室は、死んだような沈黙に包まれた。




