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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第211話 黒い風

 アレスティード領は穏やかで実り豊かな冬を迎えるはずだった。私の日常は、公会本部の運営という新しい仕事で満ち足りていた。

「レオ講師、次の研修の時間です!」

「はい、今行きます!」

 廊下を小走りで駆け抜けていくレオの背中を見送りながら、私は執務室の窓辺で小さく微笑んだ。各村から集まってきた研修生たちの熱気が、この古い建物の隅々まで温めているようだ。彼らがここで学び、それぞれの村へ帰って新しい希望の種を蒔く。その確かな手応えが、私の心を静かな達成感で満たしていた。

「奥様、顔が緩んでおられますよ」

 侍女長のフィーが、淹れたてのハーブティーを置きながら楽しそうに言う。

「そうかしら」

「はい。王都からお戻りになった時とは、別人のようです。今の奥様は、まるでこの大地に根を張った大樹のよう」

「まあ、大袈裟ね」

 彼女の言葉を笑って受け流しながらも、悪い気はしなかった。フィーの言う通りかもしれない。もう、何かに怯えたり、自分を偽ったりする必要はない。私の居場所は、確かにここにある。この穏やかな日々が、これからもずっと続いていくのだと、私は信じて疑わなかった。



 その平穏を切り裂いたのは、けたたましく鳴り響いた緊急招集の鐘の音だった。

「フィー、何事ですの!」

「分かりません! ですが、あれは最高警戒レベルを示す鐘の音です! 奥様、すぐに公爵閣下の元へ!」

 執務室を飛び出すと、廊下はすでに騒然としていた。侍従たちが緊張した面持ちで走り回り、遠くで衛兵たちの怒号が聞こえる。何が起きたのか分からないまま、私はフィーに促されてアレス様のいる書斎へと急いだ。

 書斎の重い扉を開けると、そこには息を呑むような緊張が満ちていた。アレス様が執務机に片手をつき、窓の外の暗い空を睨みつけている。その隣には、いつも冷静なブランドンが、珍しく蒼白な顔で立っていた。

「アレス様!」

「来たか、レティシア」

 彼が私を見た。その灰色の瞳が、見たこともないほど硬質に凍りついている。

「いったい、何があったのですか」

「北の果て、第六観測所から緊急報告だ」

 彼が顎で示した机の上には、一本の金属製の筒が置かれていた。猛禽の足に付けられていたのだろう。その表面には、異様な霜がびっしりと張り付いている。

「これを運んできた鳥は、着地と同時に息絶えたそうだ。極度の疲労と、凍傷で」

 ブランドンが、震える声で補足した。アレス様が筒から引き抜いた羊皮紙を広げる。そこには、インクが滲み、ほとんど判読不能な走り書きの文字が並んでいた。

「天候パターンに異常発生。未確認の気圧低下と…魔力循環の急激な停滞を観測」

 アレス様が、歯を食いしばるようにして文字を読み上げた。

「魔力循環の停滞? そんなことがあり得るのですか」

「分からん。だが、問題はそこではない」

 彼は、羊皮紙の最後の行を指差した。

「『古文書に伝わる「黒い風」の前兆と思われます』…だと?」



「黒い風…?」

 私は、その不吉な響きの言葉を繰り返した。ブランドンは、その言葉を聞いただけで、はっと息を呑んだ。

「まさか…。閣下、それはただの伝承のはずでは」

「俺もそう思っていた。だが、第六観測所の所長は、冗談で命を懸けるような男ではない」

 アレス様は、羊皮紙を机に叩きつけると、踵を返した。その動きには、一切の迷いがなかった。

「書庫へ行くぞ。お前たちも来い」

 私たちは、早足で書斎を出て、屋敷の最も古い区画にある書庫へと向かった。重い樫の扉を開けると、埃と、乾いた羊皮紙の匂いが鼻をつく。アレス様は、躊躇うことなく薄暗い書庫の奥へと進み、特定の棚の前で足を止めた。そして、梯子をかけると、一番上の段に眠っていた、分厚く、黒い革の表紙で装丁された一冊の古文書を、慎重に運び下ろした。

 彼は、その古文書を埃まみれの閲覧台の上に広げた。乾いた頁が、ぱらぱらと音を立ててめくれていく。そして、ある頁で、その指がぴたりと止まった。

「…これだ」

 そこには、古語で記された、一つの項目があった。『大氷期についての考察』。

「大氷期…?」

「ああ。百年から二百年に一度、この地を襲うとされる、未曾有の大寒波だ」

 アレス様は、古文書の記述を指でなぞりながら、低い声で説明を始めた。

「ただの厳しい冬ではない。数週間にわたり太陽を完全に覆い隠し、全ての道を閉ざし、大地そのものを凍てつかせる。自然という名の、巨大な暴力だ」

「そんな…」

「記録によれば」とブランドンが、震える声で続けた。「前々回の大氷期では、当時の領民の三分の一が命を落としたと記されております。飢えと、寒さで」

 三分の一。その、あまりにも重い数字に、私は言葉を失った。それは、もはや災害ではない。静かな、そして容赦のない、大量虐殺だ。

「黒い風というのは、この大氷期がもたらす猛吹雪のことらしい。雪に黒い砂が混じり、昼でも夜のように視界を奪うことから、そう呼ばれている」

 アレス様は、静かに古文書を閉じた。その、ぱたんという乾いた音が、まるで死刑宣告のように、静まり返った書庫に響き渡った。



 彼は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳から、先ほどまでの動揺は消え失せ、代わりに統治者としての、絶対零度の光が宿っていた。

「ブランドン!」

「はっ!」

「今この時より、全領内に非常事態を宣言する! 全ての商業活動を即時停止させろ!」

「よろしいのですか!?」

「問答は無用だ! 領内の全ての荷馬車、全ての物資を公爵家の管理下に置く! これは命令だ!」

 彼の、かつてないほど鋭く、冷徹な声が響き渡る。

「最優先事項は、食料と燃料の備蓄だ! 特に山間部の村々へ、可能な限り物資を送り込め! 黒い風が来れば、全ての道は閉ざされる! 時間がないぞ!」

「承知いたしました!」

 ブランドンは、即座に踵を返し、書庫を駆け出していった。屋敷の奥で、緊急事態を告げる重い鐘の音が、ゴーン、ゴーンと鳴り響き始める。

 書庫には、私とアレス様だけが残された。

「わたくしは、公会へ行きます」

 私が言うと、彼は私に視線を戻した。

「領内各地の備蓄状況を、この目で再確認しなければ。それと、非常時のための献立も作成します。限られた食材で、最も多くの人々を、最も長く支えるための献立を」

「…ああ。頼む」

 彼の短い返答に、絶対的な信頼が込められているのが分かった。

「お前は、民の腹と心を守れ。俺は、この城で全体の指揮を執る。それぞれの戦場だ」

「はい、アレス様」

 私たちは、それ以上言葉を交わさなかった。

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