第209話 街角の再生
公共食堂の研修プログラムが始動してから、公会本部は心地よい活気に満ちていた。各村から集まってきた若者たちの熱意が、建物の隅々まで温めているかのようだ。レオが講師として教壇に立つ姿もすっかり様になり、彼の言葉に真剣に耳を傾ける研修生たちの姿を見るのが、私の新しい日課となっていた。
「奥様、少々厄介な方がお見えです」
その日、私が研修用の新しい教科書の草案に目を通していると、侍女長のフィーが困惑した表情で執務室に入ってきた。
「厄介な方?」
「はい。領都の路地裏で小さな食堂を営んでいる、ヨハンと名乗る老人なのですが。公会への加盟を申し込むわけでもなく、ただ『公爵夫人に会わせろ。文句がある』の一点張りで…」
「文句、ですって?」
私はペンを置いた。公共食堂計画への反発だろうか。しかし、それにしては少し時期が遅すぎる。
「ええ。もう一時間も、応接室の前で大声を出しておられます。衛兵を呼ぶこともできますが、いかがいたしましょう」
「いいえ、その必要はありませんわ。わたくしが直接お会いします。ご案内してちょうだい」
*
応接室に通された私を待っていたのは、想像していた以上に頑固そうな老人だった。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、その瞳は長年の苦労と不満で濁っているように見える。私が部屋に入っても、彼は椅子から立とうともせず、ただふんぞり返ったまま私を睨みつけていた。
「あなたが、公爵夫人様か」
「ええ、わたくしがレティシアです。ヨハンさん、とお呼びしてよろしいかしら」
「好きに呼べばいい。あんたに文句があって来たんだ。長話はごめんだぜ」
彼の態度は、およそ貴族に対するものとは思えなかった。しかし、私はその無礼を咎めるつもりはなかった。彼の目には、貴族の威光など通じないだろう。
「文句とは、公共食堂のことかしら」
「ああ、そうだ。あんたが始めた、あの派手な食堂のせいでな。うちみたいな店は、もう閑古鳥が鳴いてるどころの話じゃねえ。客が、一人も来なくなったんだ!」
彼はテーブルを拳で叩いた。その目は、本気で怒っていた。
「どうしてくれるんだ、ええ? 長年、親父の代からこの場所で真面目にやってきたんだ。それを、あんたの気まぐれ一つで、潰されてたまるか!」
私は、彼の怒声にも表情を変えず、ただ静かに彼の話を聞いていた。彼の店の状況は、フィーからの簡単な報告で把握している。大通りから一本入った路地裏という悪い立地。やたらと多いだけの、特徴のないメニュー。そして、公共食堂の人気に客を奪われ、破綻寸前。
「そうですか。それはお困りですわね」
「困ってるどころの話じゃねえ! あんたには、俺たちの生活を奪う権利があるってのか!」
「権利はありません。ですが、あなたのお店の客が来なくなったのは、本当に公共食堂だけのせいかしら」
「何だと?」
私の静かな問い返しに、ヨハンの顔色が変わった。
「失礼ですが、あなたのお店の帳簿を見せていただくことはできますか。それと、あなたが作る料理の中で、一番得意なものは何ですの?」
「……帳簿だと? なぜ、あんたにそんなものを見せなきゃならん。得意な料理? うちのメニューは、どれも親父から受け継いだ自慢の味だ!」
「メニューは、全部で何種類おありですの?」
「四十種類は下らねえな!」
彼は、それを誇るかのように胸を張った。私は、小さくため息をついた。
「ヨハンさん。あなたの代で、この店を終わらせるおつもりですか」
「なっ…!」
私の、どこまでも静かな、しかし核心を突いた一言に、彼は言葉を失った。彼の怒りの根底にあるのは、長年守ってきた自分の店への愛着と、時代の変化についていけない焦り。ならば、私がすべきことは、彼を論破することではない。
*
「もう一度お尋ねします。あなたの一番の武器は、何ですの?」
彼の頑なな態度が、わずかに揺らいだ。彼は視線を落とし、長い沈黙の後、絞り出すような声で呟いた。
「……野菜スープ、だ」
「野菜スープ?」
「ああ。昔からの常連が、それだけは美味いと言ってくれていた。ただの、カブと人参を煮込んだだけの、何の変哲もないスープだがな」
「それですわ」
私は、身を乗り出した。「あなたの武器は、そのスープです。四十種類のメニューではありません。それ以外は、一度全て、捨てなさい」
「捨てるだと!? 馬鹿なことを言うな! あれは、親父の代からの…」
「親の代からの伝統が、今のあなたの店を潰そうとしているのですよ」
私はきっぱりと言い切った。彼の顔が、怒りと悔しさで歪む。
「わたくしに、一ヶ月だけ時間をいただけませんか。あなたの店を、立て直してみせます」
「……あんたが、俺の店を?」
彼は、信じられないといった目で私を見た。
「ええ。まず、メニューを『ヨハンの特製野菜スープと焼きたてパン』のセットだけに絞り込みます。次に、公会のルートを使って、新鮮で安価な野菜を安定的に仕入れられるように手配しましょう。そして、店の名前も『スープ屋ヨハン』に変えるのです」
私の口から、あまりにも具体的で論理的な提案が次々と飛び出すのを、彼は呆然と聞いているだけだった。
「……なぜだ。なぜ、あんたが、俺の店のために、そこまでしてくれるんだ」
「この街から、温かい食卓が一つでも消えるのは、わたくしにとっても大きな損失ですから。それに」と私は続けた。「あなたのスープは、この街の新しい財産になるかもしれませんわ」
彼は、長い間、黙り込んでいた。その顔には、深い葛藤の色が浮かんでいる。やがて、彼はゆっくりと椅子から立ち上がると、私の前に進み出た。そして、これまでの無礼が嘘のように、その場で深く、深く頭を下げた。
「……頼む。公爵夫人様。どうか、わしに、もう一度だけ、チャンスをくだせえ」
その声は、震えていた。
「ええ、もちろんです。一緒に、あなたの店を再生させましょう」
私は、静かに頷いた。彼が顔を上げた時、その瞳に、何十年ぶりかとなるであろう、闘志の火が確かに灯っているのを、私は見逃さなかった。
「ただし、これは施しではありません。わたくしのコンサルティング料は、あなたの店が黒字化した暁に、その利益の一割を、公会の奨学金として寄付していただく。それが契約条件ですわ」
「…望むところだ」
彼は、力強く頷いた。そして、決意を新たにした足取りで、応接室を去っていった。




