第20話 朝食の約束
夕食の片付けが終わり、厨房が静けさを取り戻した頃、一人の侍従が私を訪ねてきた。
「奥様。閣下がお呼びです。執務室にてお待ちです」
その言葉に、厨房に残っていたフィーたちの視線が一斉に私に集まる。緊張と好奇が入り混じった、複雑な色をしていた。
来たか、と思った。
昼過ぎにブランドンへ託した、あの一枚の提案書。その裁定が、今、下されるのだ。
私は侍従に「すぐに参ります」とだけ答え、一度自室に戻って身なりを整えた。鏡に映る自分の顔は、思ったよりも落ち着いている。けれど、冷たい指先が、内心の緊張を正直に告げていた。
公爵の執務室がある西棟の廊下は、夜になると一層静かで、私の足音だけがやけに大きく響いた。重厚なマホガニーの扉の前で一度立ち止まり、浅く息を吸う。大丈夫。私は間違ったことはしていない。ただ、この家が少しでも温かくなるようにと願っただけだ。
軽く二度、扉をノックする。
「入れ」
中から聞こえたのは、いつもと変わらない低く、平坦な声だった。私は静かに扉を開け、中へと足を踏み入れた。
*
部屋の中は、暖炉に焚かれた薪がぱちぱちと爆ぜる音だけが響いていた。壁一面の本棚、重厚な執務机、そして革張りのソファ。この部屋の空気は、いつも張り詰めていて、少しだけインクと古い紙の匂いがする。
アレスティード公爵は、机に向かって何か書類に目を通していた。私が部屋に入っても、すぐには顔を上げない。彼の前には、見覚えのある羊皮紙が広げられていた。私が今朝、全身全霊を込めて書き上げた、あの提案書だ。
私は彼の邪魔をしないよう、音を立てずに机の正面に置かれた椅子まで進み、彼の言葉を待った。
長い、沈黙だった。
暖炉の炎が、彼の銀色の髪を時折きらりと照らす。彼は何を考えているのだろう。私の行動を、出過ぎた真似だと断罪するのか。それとも、家の規律を乱したとして、契約の破棄を言い渡すのか。
考えられる最悪の可能性をいくつも頭に浮かべ、そのどれが来ても受け入れられるように心の準備をする。私はもう、誰かの顔色を窺って自分を殺す「いい子」ではないのだから。
やがて、彼は読んでいた書類から顔を上げ、その氷のような青い瞳で、私をまっすぐに見据えた。
「レティシア」
初めて、彼が私の名を呼んだ。いつも「君」か、あるいは何も呼ばなかった彼が。その事実に、心臓が小さく跳ねる。
「君が提出した、この食事規定の改定案だが」
彼は指で、羊皮紙をとん、と軽く叩いた。
「承認する」
短く、告げられた言葉。
私は思わず息を呑んだ。予想していた厳しい叱責とは全く違う、あまりにもあっさりとした肯定。全身から、張り詰めていた糸がふっと緩むのを感じた。
「……よろしいのですか」
「データに基づいた、合理的な提案だ。家の利益に適うものを、私が却下する理由はない」
彼はあくまで淡々と、事実だけを述べる。けれど、その言葉は、私がこの数週間、必死で積み上げてきたことの全てを認める、何よりの賛辞だった。
安堵で、胸が温かくなる。これで、この屋敷は変わる。私が去った後も、ここに残る温かさの土台が、ようやくできたのだ。
「ありがとうございます、閣下」
私が頭を下げると、彼は「ああ」と短く応じた。これで話は終わりだろうか。私が席を立とうとした、その時だった。
「ただし、条件がある」
彼の言葉が、私を引き留めた。
条件? 私は顔を上げ、彼の顔を見つめ返す。彼の青い瞳は、先ほどよりも強い光を宿して、私を捉えていた。暖炉の炎が、その瞳の奥で揺らめいているように見える。
彼は、わずかな間を置いて、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「明日から、朝食は共に摂る」
*
時が、止まったように感じた。
今、この人は、何と言ったのだろう。
朝食を、共に摂る?
それは、私たちが交わした契約の、根幹を揺るがす言葉だった。
『互いの私生活には干渉しない』
それは、この結婚における絶対のルール。彼が私に自由を与え、私が彼に安寧を保証するための、最も重要な境界線。共に食事を摂るなど、その境界線を踏み越える行為に他ならない。
「……閣下。それは、契約に反します」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。
彼は私の動揺を見透かすように、静かに言葉を続ける。
「これは干渉ではない」
「では、何だとおっしゃるのですか」
「家の、新しい規律だ」
彼はこともなげに言った。その理屈に、私は言葉を失う。私が作った「規律の改定案」を逆手に取り、彼は自らの要求を「規律」だと言い張るつもりなのだ。なんて、横暴で、そして……ずる賢い人だろう。
私は彼の真意を探るように、その瞳をじっと見つめた。
なぜ、今になってそんなことを? お飾りの妻は、ただ静かに、そこに存在していればいいのではなかったのか。
彼の瞳は、相変わらず表情を映さない氷の湖面のようだ。けれど、その奥深くで、何か小さな変化が起きているのを、私は感じずにはいられなかった。それは、私の料理が彼の体を温め、彼の魔力循環を整えたことと、決して無関係ではないはずだ。
彼は、ただ温かい食事が欲しいだけなのだろうか。それとも、何か別の理由が?
分からない。この人の考えていることは、全く分からない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
彼のこの要求は、私たちがただの契約相手でいることを、終わらせようとする最初の一歩だ。それは、私が求めた「静かな自由」とは、少し違う未来かもしれない。
どうする、レティシア。
ここで拒絶するのは簡単だ。契約書を盾にすれば、彼も無理強いはできないだろう。そうすれば、私はこれからも安全な距離を保ったまま、自由でいられる。
でも。
脳裏に、初めて「おかわり」と言った時の、あの子犬のような瞳がよぎる。胃を痛めて苦しんでいた夜の、無防備な寝顔が浮かぶ。
この氷の公爵の、仮面の下にあるもの。
それを、もう少しだけ、見てみたいと思ってしまった。
我慢はしない。そう決めたはずだ。けれど、自分の好奇心に蓋をすることも、また一つの「我慢」ではないだろうか。
私は、ゆっくりと息を吸った。
そして、目の前の不器用な公爵に向かって、静かに微笑んだ。
「承知いたしました。閣下」




