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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第208話 新しい教室

「奥様、本日だけで五つの村から陳情が。いずれも、例の食堂の件でございます」

 公爵家の応接室から戻ってきたブランドンが、分厚い陳情書の束を私の机に置きながら、深いため息をついた。その完璧に整えられた髪が、心なしか乱れているように見える。

「まあ、大盛況ですわね。嬉しい悲鳴、というところでしょうか」

「悲鳴は悲鳴でも、わたくしの体が上げる方が先になりそうです。このままでは、陳情団の対応だけで一日が終わってしまいます」

 彼の珍しく弱音めいた言葉に、私は苦笑した。シルヴァン村の成功がもたらした嬉しい誤算。それは、圧倒的な人材不足という、極めて現実的な問題だった。

「レオさん一人に、全ての村を任せるわけにはいきませんものね」

「その通りでございます。彼のような、現場を理解し、村人と対等な関係を築ける指導者が、少なくともあと十人は必要でしょう。ですが、そんな人材は…」

「いいえ、ブランドン」と私は、彼の言葉を遮った。「いないのなら、育てればいいだけの話ですわ」

 私は立ち上がると、窓の外に広がる公会の建物を見つめた。

「緊急で、公会の主要メンバーを集めてください。次の段階へ進む時が来ました」



 その日の午後、公会本部の会議室は、緊張した熱気に包まれていた。シルヴァン村から急遽呼び戻されたレオ、厨房の重鎮であるゲルト、そして各部門の責任者たちが、テーブルを囲んでいる。

「レオ、まずは現場からの報告をお願いします」

 私が促すと、レオは少し日焼けした顔を引き締め、立ち上がった。

「はい。シルヴァン村の食堂運営は、完全に軌道に乗りました。今ではアンナさんを中心に、村の女性たちが全ての調理と運営を担っています。僕はもう、助言役にすぎません」

「見事な成果ね。それで、もし他の村で同じことを始めるとしたら、何が一番の課題になると思う?」

「人材、です」と彼は、きっぱりと言い切った。「それも、ただ料理が上手いだけの料理人ではありません。村の人たちの誇りを理解し、彼らが自分たちの手で立ち上がるのを、辛抱強く待つことができる人間。そして、衛生管理や簡単な帳簿付けの知識も不可欠です。僕がシルヴァン村で最も苦労したのは、実はそこでした」

 彼の言葉に、ゲルトが腕を組んで頷いた。

「へっ、確かにその通りだ。頑固な年寄りに手を洗わせる方が、熊を丸焼きにするより骨が折れたぜ」

 その、ぶっきらぼうな冗談に、室内に張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。レオは続けた。

「シルヴァン村は、僕の故郷と似ていました。だから、彼らの気持ちが痛いほど分かった。でも、他の村ではそうはいかないかもしれません。必要なのは、体系化された知識と、成功事例を学ぶための仕組みです」

 彼の報告は、私が考えていたことと全く同じだった。私は、レオに座るよう促すと、集まった全員を見渡して口を開いた。

「ありがとう、レオ。あなたの報告で、進むべき道がはっきりしました。わたくしは、温食公会に新しい研修プログラムを設立することを、ここに提案します」

 室内に、静かな緊張が走る。

「その名も『公共食堂運営コース』です」



「公共食堂…運営コース、ですか」

 若い料理人の一人が、戸惑ったように呟いた。

「はい。このコースで教えるのは、調理技術だけではありません。むしろ、調理技術は全体の三割程度にします」

「では、残りの七割は一体何を…?」

「衛生管理の徹底、廃棄ロスをなくすための食材管理術、そして、銅貨一枚の売上まで記録するための、簡単な帳簿の付け方。さらに最も重要なのは」と私は続けた。「村人たちとの『対話の方法』です」

 私のその言葉に、レオがはっとしたように顔を上げた。

「誰を対象にするのですか、奥様」とゲルトが尋ねる。

「各村から、やる気のある若者を一人ずつ、研修生として推薦してもらうのです。彼らがここで学び、自分の村へ戻って、自分たちの手で食堂を立ち上げる。わたくしたちがするのは、その手助けだけです」

「なるほどな。魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える、というわけか」

「その通りです。そして、その『釣り方』を教える講師も必要になります」

 私は、まっすぐにレオを見つめた。

「レオ、あなたに、その初代講師の一人を、お願いできますか」

「ぼ、僕が講師だなんて! そんな、とんでもない!」

「あなた以上に、適任な人はいません。あなたには、シルヴァン村での成功と、そして失敗の、生きた経験があるのですから」

 私の真剣な視線に、彼は言葉に詰まって俯いた。その時、ゲルトがその広い背中を、どんと叩いた。

「うろたえるな、若いの。お前さん一人でやるわけじゃねえ。俺も手伝ってやる。頑固な年寄りの心を溶かす秘伝のシチューの作り方くらいは、教えてやれるだろうよ」

「ゲルトさん…」

「シルヴァン村のアンナさんたちにも、時々来てもらいましょう。村の女性の視点から語ってもらうことも、きっと重要になるはずですわ」

 私のその言葉に、レオはゆっくりと顔を上げた。その瞳に、もう迷いはなかった。

「……分かりました。お受けいたします」

 彼は、椅子から立ち上がると、深く、深く頭を下げた。

「僕がシルヴァン村で学んだ全てを、次の人たちに伝えます。それが、僕を信じてくださった奥様と、シルヴァン村の皆さんへの、一番の恩返しですから」

 その力強い決意表明に、会議室は、温かい拍手に包まれた。



 その日から、公会本部は新しい活気に満ち溢れた。

 使われていなかった倉庫の一つが、研修生たちのための新しい教室と、小さな調理実習室へと、急ピッチで改装されていく。各村へは、アレスティード公爵家の名で、研修生を一人ずつ推薦するよう求める公式な通達が出された。

 私は、レオやゲルトと共に、連日カリキュラムの作成に追われた。『第一章:なぜ手を洗うのか』『第五章:帳簿は嘘をつかない』『最終章:村の長老と仲良くなるための十の方法』。それは、王都のアカデミーにあるどんな教科書とも違う、泥と、湯気と、そして人の温もりに満ちた、私たちの手作りの教科書だった。

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