第207話 北風と太陽
私の元には、レオが書く几帳面な文字で記された運営報告書が、十日ごとに届けられるようになった。そこには、食材の仕入れ値や日々の売上といった無機質な数字と共に、村で起きたささやかな出来事が、彼の飾らない言葉で綴られている。
『先日、村で一番の年寄りであるイーノ婆さんが、孫に手を引かれて初めて食堂に来ました。スープを一口飲むと、ただ「ああ、温かい」とだけ言って、静かに涙をこぼしていました』
『男たちが、自分たちで獲った獲物の一部を食堂に卸してくれるようになりました。その代わり、自分たちの酒の肴として、ゲルトさん直伝の塩漬け肉の作り方を教わっています』
報告書の最後の頁には、いつもアンナさんをはじめとする村の女性たちが書いた、短い手紙が添えられていた。そこには感謝の言葉はほとんどない。代わりに「今度、カブの新しい漬物の作り方を教えてやるから、いつでも来なさい」というような、ぶっきらぼうで温かい言葉が並んでいた。彼らはもう、施しを受ける憐れな民ではない。共に未来を作る、対等なパートナーだった。
*
「奥様、少々よろしいでしょうか」
その日、私が公会本部の執務室で次の研修プログラムの草案を練っていると、執事長のブランドンが珍しく神妙な面持ちで訪ねてきた。
「ええ、どうかなさいましたの? 何か問題でも?」
「いえ、問題というわけではないのですが…。その、本日、お客様がお見えです。東の谷にある、ポプラ村の村長が、是非とも奥様に直接お会いしたいと」
「ポプラ村の…」
私の記憶が正しければ、その村は、この公共食堂計画に最も懐疑的だった村の一つのはずだ。最初の説明会の際も「他所の村のことなど、我々には関係ない」と、早々に席を立った頑固な老人だった。
「一体、何の御用でしょう」
「それが…。何でも、例の食堂の件だそうで」
ブランドンの歯切れの悪い物言いに、私はペンを置いた。
「分かりました。応接室へご案内してください」
応接室で私を待っていたのは、記憶にある通りの、鷲のような鋭い目つきをした老人だった。彼は私が部屋に入ると、気まずそうに一度視線を逸らしたが、やがて意を決したように口を開いた。
「…公爵夫人様。先日は、無礼を働きましたこと、お詫び申し上げる」
「いいえ、お気になさらないでください。それで、本日のご用件は」
私が単刀直入に尋ねると、彼は咳払いを一つして、もごもごと話し始めた。
「その、だ。先日、うちの村の若い衆が、冬の仕事を探しにシルヴァン村の方まで下りていきましてな。そいつが、戻ってきてから、妙なことばかり言うのです」
「妙なこと、ですか」
「はい。『シルヴァンの連中の顔つきが、まるで違う』と。『冬だというのに、子どもたちの頬は赤く、そこらの年寄り連中まで元気に薪を割っている』などと、馬鹿げたことを」
彼は、まるで信じがたい噂話でもするかのように、苦々しい表情で続けた。
「行商人からも聞きました。『シルヴァンには、銅貨一枚で腹一杯になれる、温かいスープを出す店ができた。村の連中が自分たちでやっているらしい』と」
「ええ、全て事実ですわ」
私のあっさりとした肯定に、彼はぐっと言葉に詰まった。
「…わしらは、施しを受けるつもりは毛頭ない。ですが」と彼は続けた。「その行商人が言うには、あれは施しではないと。あんた方とシルヴァンの連中が結んだ、対等の『契約』なのだと。それは、まことでございますか」
「ええ、まことです。わたくしたちは場所と知識を提供し、彼らは労働とデータを提供する。ただ、それだけのことです」
私のその言葉を聞くと、彼は長い間、黙り込んだ。その顔には、長年持ち続けてきた誇りと、目の前にある厳しい現実との間で揺れ動く、深い葛藤の色が浮かんでいた。やがて、彼は絞り出すような声で言った。
「……わしらの村とも、その『契約』を結んでいただくことは、できますかな」
*
その日を境に、何かが明らかに変わった。
ポプラ村の村長が帰った数日後、今度は別の村の代表者が、またその次の日には、さらに遠くの集落の長老たちが、アレスティード公爵家の門を叩くようになったのだ。
「奥様、本日も三件のアポイントが。いずれも、例の食堂の件でございます」
ブランドンが、山積みの陳情書を抱えながら、嬉しい悲鳴のような声を上げた。
「まあ、大盛況ですわね。ブランドンも大変でしょう?」
「いえ。これほど多忙なのは、先代公爵の時代以来かもしれません。ですが、不思議と疲労は感じませんな。むしろ…」
「むしろ?」
彼は、ほんの少しだけ口ごもった後、珍しくストレートな言葉を口にした。
「…やり甲斐、とでも申しましょうか」
その言葉に、私は思わず微笑んだ。
その夜、書斎でアレス様に報告すると、彼はいつもの椅子に深く腰掛けたまま、静かに私の話を聞いていた。
「…応接室が、市場のようになっていると聞いたが」
「ええ、大変な賑わいですわ。どなたも、自分の村の素晴らしさと、食堂の必要性を、実に熱心に語ってくださいますのよ」
「無理やり扉をこじ開けるのではなく、内側から開かせたか。北風ではなく、太陽だったというわけだな」
イソップ寓話になぞらえた彼の言葉に、私は静かに首を振った。
「いいえ、アレス様。太陽はわたくしではありません」
私は、窓の外に広がる、月明かりに照らされた静かな大地を見つめた。
「シルヴァン村の皆さんが、自分たちの力で輝き始めたのです。他の村の方々は、その光に気づいただけですわ」
「……そうか」
彼が短く応じた、その時だった。応接室の方から、騒がしい声が聞こえてきた。ブランドンが、慌てた様子で書斎の扉を開ける。
「閣下、奥様! 申し訳ございません! アポイントのない方々が、どうしてもと…!」
その向こうには、十数人の村の長老たちが、気まずそうな、しかし切実な表情で立っていた。その中には、最初の説明会で、私に最も敵意を向けていた男たちの顔も、確かにあった。彼らは、私とアレス様の姿を認めると、まるで示し合わせたかのように、その場で深く、深く頭を下げた。




