第204話 温かいスープと子供の笑顔
住民会議は、結論が出ないまま終わった。村人たちは何かを言い合うでもなく、ただ一人、また一人と無言で集会所を後にしていく。その背中は、私たちの提案を拒絶するというよりも、関わること自体を避けているようだった。
「やはり、無理だったんでしょうか」
最後に残った扉が閉じられると、レオが力なく呟いた。彼の声は、このがらんとした冷たい空間に虚しく響く。
「いいえ、無理ではありませんわ。彼らは、わたくしたちの言葉を、まだ信じられないだけです」
「ですが、あの様子では二度と話し合いの場には…」
「言葉で駄目なら、行動で示すしかありません。そうでしょ、ゲルト」
私が壁際で腕を組んでいたゲルトに視線を向けると、彼はにやりと口の端を上げた。
「へっ、理屈で駄目なら腹に聞かせるしかねえな。料理人にとっちゃ、いつものことだ」
「ええ、お願いします。私たちの最初の『実績』を、この村に作りましょう」
*
翌朝、私たちは集会所の前の広場で、大きな鍋に火を入れた。村は朝靄に包まれ、しんと静まり返っている。家の戸は固く閉ざされ、人の気配はない。しかし、私たちが何かを始めていることは、村中の人間が気づいているはずだった。
「奥様、本当にこれでいいんでしょうか。誰も来なかったら…」
「その時は、私たちで全部いただくまでですわ。無駄にはなりません」
不安げなレオを宥めながら、私は鍋の中に、持参した塩漬け肉の塊と、干した野菜をたっぷりと放り込んだ。ゲルトが慣れた手つきで薪をくべると、やがて鍋から白い湯気が立ち上り始める。
「何をしているんだ、あいつら」
「さあな。どうせ、すぐに飽きて帰るだろうさ」
家の戸口や窓の隙間から、私たちを監視する村人たちの囁き声が、冷たい風に乗って聞こえてきた。彼らは、腕を組み、遠巻きに私たちを眺めているだけだ。その視線は、昨日と少しも変わらない、硬く、冷たいものだった。
私は、その視線を意に介さず、ただ黙々と鍋をかき混ぜ続けた。やがて、肉と野菜が煮える香ばしい匂いが、湯気と共に村の空気の中へとゆっくりと広がっていく。それは、この貧しい村では、久しく嗅ぐことのなかった、豊かで温かい生活の匂いだった。
*
その匂いに、最初に反応したのは、大人たちではなかった。
一軒の、古びた家の物陰から、小さな頭が、おずおずと覗いた。薄汚れた服を着た、五歳くらいの男の子だった。彼の視線は、鍋から立ち上る湯気に釘付けになっている。
「坊や、こっちへ来なさい!」
家の中から、母親の鋭い声が飛んだ。男の子はびくりと肩を震わせたが、その場から動こうとはしなかった。
一人、また一人。
まるでその匂いに引き寄せられるように、他の家の陰からも、子どもたちが姿を現し始めた。彼らは、大人たちの言いつけと、目の前の温かい匂いの間で、どうすべきか決めかねているようだった。
「レオ、お椀の準備を」
私は静かに指示を出すと、自らも木のお椀を手に取り、鍋の前に立った。そして、子どもたちに向かって、できるだけ穏やかに微笑みかけた。
「お腹は空いていないかしら? 温かいスープがあるのよ」
私の言葉に、子どもたちはお互いの顔を見合わせた。最初に姿を現した男の子が、意を決したように一歩、前に出た。
「…もらっても、いいの?」
「ええ、もちろん。あなたたちのためのスープだもの」
私は頷くと、熱いスープをなみなみと注ぎ、彼に手渡した。男の子は、差し出されたお椀を、両手で大切そうに受け取った。
*
彼は、警戒するように、まずスープの匂いを嗅いだ。そして、おそるおそる、その一口を口に運ぶ。
次の瞬間、その小さな瞳が、驚きに見開かれた。
「……おいしい」
か細い、しかし、はっきりとした声だった。彼は、堰を切ったように、夢中でスープを啜り始めた。その姿を見て、ためらっていた他の子どもたちが、我先にと鍋の周りへ駆け寄ってきた。
「僕も!」「わたしも欲しい!」
「はいはい、順番よ。火傷しないように気をつけて」
広場は、あっという間に子どもたちの賑やかな声で満たされた。彼らは、生まれて初めて口にするような具沢山の温かいスープを、その小さな頬を真っ赤に染めながら、幸せそうに頬張っている。
「おかわり!」
最初にスープを受け取った男の子が、空になったお椀を誇らしげに掲げた。その屈託のない笑顔は、どんな雄弁な説得よりも、遥かに強力だった。
遠巻きに見ていた大人たちの間に、動揺が走るのが分かった。
「おい、うちの子が…」
「大丈夫なのか、あれは」
特に、母親たちの表情は複雑だった。警戒心と、そして自分の子どもが美味しそうに食事をする姿を目の当たりにした、隠しきれない安堵の色が入り混じっている。石のように硬かった村の空気が、子どもたちの笑い声によって、ほんの少しだけ、和らいでいく。
あの村長も、いつの間にか集会所の入り口に立っていた。腕を組んだままの、厳しい表情は変わらない。だが、その視線は、スープを啜る子どもたちの姿から、決して離れようとはしなかった。




